お城のデータ
所座地:滋賀県犬上郡多賀町月之木30 map:https://yahoo.jp/-CM00j
別 称:久徳城の出城
現 状:寺院(青龍山 西性寺)
築城期:織豊期
築城者:開祖元亀年間(1570-1573)三修上人 中興 普広正林大徳
城 主:村山氏
目標地:久徳城
駐車場:路上駐車
訪城日:2017.9.5
お城の概要
月ノ木城は、永禄11年(15689月、浅井長政の攻略によって落城していたので、その地に仏堂を建立して、敏満寺より搬出されていた仏像を再祀して、戦死者の菩提を弔ったことに始まる。
ゆえに西性寺の山号である青龍山は、敏満寺の山号であり、西性寺の寺号は、敏満寺山内にあった寺院名であると伝える。
お城の歴史
月ノ木城は、永禄11年(15689月、浅井長政の攻略によって落城していたので、その地に仏堂を建立して、敏満寺より搬出されていた仏像を再祀して、戦死者の菩提を弔ったことに始まる。ゆえに西性寺の山号である青龍山は、敏満寺の山号であり、西性寺の寺号は、敏満寺山内にあった寺院名であると伝える。
因みに、浅井長政に滅ぼされた当時の月ノ木城城主は、村山氏であって、伊井直弼大老の寵愛を受けた村山タカ女は、月ノ木城主村山氏の子孫であると伝えられている。
承和年間(834-847)より元亀3年(1572)までの間、現在の名神高速道路多賀サービスエリアの地に清龍山敏満寺(伊吹山の三修上人が開山)があった。
敏満寺は、元亀3年(1572)の織田信長の兵火にかかり、全山消失してしまった。
その際、幾多の仏像仏具が火難を逃れて、隣寺あるいは民家に秘蔵されていた。
織田信長の法難を被る以前、現在の西性寺が所在する地に、久徳城の出城である月ノ木城があった。
寛文年間(1624-1644)の中興以後、寺観も漸次調えられると、村山・川上・川口・信楽・北村・山路・山本の各家より住職となる人が出て、寺を営んでいたことが『過去帳』によって知られるが、このような制度は、典型的な氏族による寺院運営制として注目に値しよう。
太平洋戦争後は、宗教法人法にのっとり法人格を得られたものの、兼務住職による活動によって支えられてきた。現在檀家は、山路氏・山本氏の2家のみである。
その他の写真 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/976847419144500
参考資料:遺跡ウォーカー、青龍山西性寺HP、ヒント:澤田様
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