現地にのこる中世酒波寺の遺構
現在の本堂の東の山麓から山腹にかけて、消失前の寺坊跡とみられるテレス上の平坦地多く残されています。
特に東山山腹側には、後述の『青蓮山絵図院内』(以下『絵図』)に記載される「祖師堂」から延びる直線道路とその両脇に「氏名坊」や「元援坊」や「三ツ星寺」と総称される「牛女院」「北斗坊」「明星坊」など、かつての寺坊の遺構が良好な状態で残っています。方形を基調とした平坦面が段々畑のように並び、高低差が少なくなる山麓部では、土塁などを築いて寺坊が区画されてうたようです。また、この平坦面の東端には、塚状の高まりで残る中世慕がみられ、周囲に石仏や五輪塔の一部など多く散乱していることから、往時は慕城であったと考えられています。
本堂の西側は『絵図』左側に記載される「岩尾坊」「危祐坊」にあたると考えられており、十二世紀から十六世紀の陶磁器等をを初めとする遺物とともに、テラス状の平坦面の中に石垣や溝状遺構、土壙などが検出されています。
また現本堂の南東は、『絵図』の下方の「伝法院」にあたると考えられ、十二世紀から十五世紀の遺構が検出されています。特に十四・十五世紀がこの寺坊の最も盛んに活動が行われた時期とみられ、掘立柱建物のほか金属製錬時に生じるスラグの付着したるつぼなどが投棄された土壌・焼土・炭・灰の溜まった土壙、石組の隙間を粘土でふさいだ水留遺構、寺の必需品で剃刀なども検出とされたため、鋳造に関与する施設が営まれていたことが明白になりました。寺坊には学僧だけでなく鋳造職人といった商工業者、あるいは職人の役割を担った寺僧が存在した可能性があります。また「三ツ星寺」と総称される寺坊グループは「暦」を作っていた集団と伝えられることから、中世の酒波寺は純粋な宗教活動を行う他に様々な集合体であったと考えられます。・・・・(河上庄の城と寺より)
所在地:高島市(旧高島郡)今津町酒波727 map:http://yahoo.jp/y_kRGL
訪城日:2016.4.5
酒波寺
酒波寺(さなみじ)は、滋賀県高島市今津町酒波にある真言宗智山派 の寺院・京都智積院の末寺。山号は青蓮山。
歴史
天平13年、行基により開かれたと伝わる。創建時は興福寺末で56坊を抱えた。
元亀3年、津田信澄により焼失し寺領を没収された。
天正年間に再興が図られたが成功せず、再興が叶ったのは寛文2年に伊香郡の菅山寺より覚仁上人を招いて後である。延宝7年に京都智積院末になった。高島七ヶ寺のひとつという。
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大津あたりではソメイヨシノが散り始めている頃でも、湖西から湖北にかけては、まだまだきれいに咲き誇る桜を楽しむことができます。今回はソメイヨシノのようにたくさん植えられている桜ではなく、凛として佇む桜の木をご紹介します。
山でよく見るヤマザクラもそういった趣きのある桜ですが、今回ご紹介するのはエドヒガンという桜です。エドヒガンは樹高15~25mで、名前のとおり春の彼岸頃に、ソメイヨシノより早く花が咲き始めます。ヤマザクラとともに桜の中ではとても長寿の種であることが知られていて、樹齢2,000年を超えるといわれるものもあります。花が多く咲く特性から多くの品種の母種として使われていて、ソメイヨシノの片親としても知られています。
このエドヒガンですが、高島市今津町から同マキノ町にかけて多く自生していることが知られていて、水上勉の小説「桜守」に登場する「清水の桜(しょうずのさくら)」もその1つです。「清水の桜」は滋賀県自然記念物に指定されている、県内最大級のサクラの巨木です。江戸時代に加賀藩の前田候が上洛の際に、何度も振り返ってその美しさを愛でたので、以来「見返りの桜」と呼ばれるようになったとの由緒もあります。
JR近江今津駅の北西約4.5km、山麓にある真言宗智山派の寺。奈良時代に行基によって開かれ、観音堂の素晴らしさは、遠く都の人々の噂になるくらいであったと伝えられています。現在の観音堂は、江戸時代に再建したものです。
境内は、山腹を利用し、本堂・書院・庫裏・護摩堂・鐘楼などが、古寺らしいたたずまいを見せています。
参道の長い寺院で、春になると桜の花が見事に咲き乱れ、参拝する人の目をなごませます。
昔、周囲の谷川に村人を困らせる大蛇が棲んでおり、酒を呑ませて退治をしたことから、この土地を酒波(さなみ)と呼ぶようになったといいます。寺名も同じ由来です。
奈良時代、行基の開基の真言宗の寺院。「諸人のなべてより来るさかなみのうみやまふかき誓いたのみて」
参考資料:河上庄の城と寺(高島市歴史探訪ガイドブック)、ウィキペディア(Wikipedia)新近江名所図会
本日の訪問ありがとうございす!!