岩崎山砦への登り口から5mも登ると右側に大岩がある。
湖畔の説明板
岩崎山は、賤ヶ岳の合戦で高山重友(右近)の砦有名だが、古代は智者寺・蓮法寺があり、これと並び岩崎の大岩として人々から崇拝されていたが道路拡張で取除かれた。湖岸に一部の岩は当時を偲ぶなごりである。
一番手前の岩が、「烏帽子岩・お膳岩」と伝承される。
菅原道真が烏帽子を掛けたとされる岩と、供え物を載せたとされる岩。
岩崎山砦の歴史
岩崎山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで高山右近が布陣にしたところで、賤ヶ岳の戦いの激戦地である大岩山砦と隣接する。 大岩山砦に隣接する岩崎山砦の高山右近は、大岩山砦が落ちたと知ると、岩崎山砦を放棄し、北国街道を挟み堀秀政が布陣する東野山砦に逃避。
天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は夜半の暗闇に紛れて、集福寺坂~文室山~権現坂を経て、賤ヶ岳砦の北側を迂 回して中川清秀が立て篭もる大岩山砦を急襲し、砦を奪取した。
翌21日未明には、岐阜城の織田信孝を攻めるために出陣していた羽柴秀吉が大垣からとって返し、大岩山砦の佐久間盛政を急襲し、佐久間盛政の“中入り”は失敗に終わった。
佐久間盛政の大岩山砦の急襲と呼応して、玄蕃尾城からでて北国街道を南下してきた柴田勝家も狐塚に陣を構えるも、動けないまま前田利家の離反もあって柴田軍は総崩れとなった。
岩崎山砦へは余呉町下余呉の、標高差50mほどの山、削平された曲輪らしきところを幾つか残る。
ハイキングコースを山頂付近に階段状に曲輪が3~4段。当然の事ながら正面に行市山(行市山砦)が見えるように配置されている。
また、山路正国等が布陣した天神山(天神山砦)、木下利久が布陣した堂木山(堂木山砦)が行市山の山裾と重なっており、臨場感は抜群である。
参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々
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