連続講座「近江の城郭 城・寺・町~中世近江の自治の世界」第3回「鈎の陣~鈎陣所跡」
応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱により、中央権力としての室町幕府は衰退し、地方勢力が台頭する戦国時代が幕を開けます。
近江においても守護六角氏が権力を振るうようになり、幕府に対し反抗的な態度を取るようになります。これに対し、将軍権力の回復をめざす室町幕府九代将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角氏を討伐するため近江に出陣し、鈎(栗東市上鈎)に布陣しました。しかし、六角氏のゲリラ戦法に苦しめられて戦線は膠着し、義尚が延徳元年(1489)に陣中で没したため、六角氏を討伐することはできませんでした。将軍親征をはねのけたことで、これ以後六角氏は戦国期の守護権力として自立していくこととなります。
この時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付近に比定されています。また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。現地には今も土塁や堀の痕跡が残されています。今回の講座では、文化財専門職員の案内で鈎陣所跡を訪ね、現地に残る遺構をたどります。
平成25年1月26日(土) 13:30~16:30 ※13:00受付開始 JR草津線手原駅集合・解散全行程約5km(平地・舗装道)
工会館3階研修室E(講義)/鈎陣所跡(現地見学)
栗東市手原3-1-25/栗東市上鈎
内容 講義「応仁の乱と将軍の近江親征」 講師:松下浩(滋賀県文化財保護課)
鈎陣所跡現地見学 解説:栗東市文化体育振興課専門職員
旧東海道を現地見学へ
寛正6年(1465年)11月23日、8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。
長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると富子は義尚を次期将軍に願望して有力守護大名の山名宗全と結託する。対する義視も管領・細川勝元を後ろ盾としたため、両派は次期将軍の座をめぐって激しく対立する。
やがて、勝元と宗全による権力闘争や畠山氏や斯波氏の家督争いも重なって応仁の乱に発展した。文明5年(1473年)には義政から将軍職を譲られ、義尚は9代将軍に就任する。
応仁の乱後、下克上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまった。義尚は将軍権力の確立に努め、長享元年(1487年)9月12日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(長享・延徳の乱)。
高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの1年5ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされた(鈎の陣)。そのため、鈎の陣所は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど華やかな儀礼も行われた。長享元年(1487年)、改名して義煕と称する。
六角征伐によって幕府権力は一時的に回復したものの、義尚は次第に酒色や文弱に溺れるようになって政治や軍事を顧みなくなった。また、長享2年(1488年)には寵愛する結城尚豊を近江守護に任じるなど、側近を重用して専ら政治を任せたため、幕府権力が専横される結果となった。長享3年(1489年)3月26日巳の刻(午前10時)、近江鈎の陣中で病死した。享年25(満23歳没)。死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある
義尚には継嗣が無かったため、従弟(義視の子)である足利義材(義稙)が義政の養子となって(一説に義尚の養子になったともいわれる)、延徳2年(1490年)に10代将軍に就任した。
室町幕府九代将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角氏を討伐するため近江に出陣し、鈎(栗東市上鈎)に布陣しました。
現地には今も土塁の痕跡が残されています。
時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付近に比定されています。
また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。
現地には今も堀の痕跡が残されている。
鈎の陣
長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚は六角高頼の征伐を決し、奉公衆を中心とした軍を率いて近江坂本へ出陣する。9月には管領・細川政元をはじめ、若狭守護・武田国信や加賀守護・富樫政親を近江に召集して高頼を攻撃する。高頼は観音寺城を放棄して撤退するが、やがて甲賀郡山間部でのゲリラ戦を展開したため、戦闘は膠着状態に陥った。
翌年には、幕府が頼みとする富樫政親が加賀一向一揆の激化によって加賀へ帰還するが、帰還した政親は一揆勢に敗れて討たれる。さらに義尚は、本願寺や一揆勢をも討伐する意向を示すが、六角氏討伐を理由とする政元から反対されて断念する。同年、義尚は側近の結城尚豊を近江守護に任命する。一方、越前守護の朝倉貞景と美濃守護の土岐成頼は、地理的にも加賀も富樫氏よりも参陣しやすい条件にありながら、次の標的とされる事を危惧して動かなかった。貞景は自らは本国越前に留まりながらも、一門の朝倉景冬を近江坂本に派兵して協調姿勢は見せたものの、成頼は美濃で挙兵して幕府軍を威圧した。
延徳元年(1489年)、義尚は近江鈎の陣中で死去した結果、六角討伐は中断となった。側近であった結城尚豊は近江を出奔し、高頼は一時的に赦免されるに至った。
第二次六角攻め
義尚の従弟で後を継いだ足利義材も、延徳3年(1491年)に再び高頼討伐を行った。高頼に替えて細川政元を近江守護に任じたが、斯波義寛・赤松政則の両軍が六角一族の山内政綱を討ち取った他は戦果を挙げられず、高頼が甲賀郡から伊勢国へ逃れたため、幕府軍は討伐を断念。政元に替えて六角虎千代(六角政堯の養子)を守護に任命して近江から撤退した。
参加した大名
- 斯波義寛 - 守護代の織田敏定・織田寛広を引き連れて上洛。朝倉氏から奪われていた越前回復を訴えるが徒労に終わる。
- 畠山尚順 - 管領畠山政長の子。
- 武田国信 - 若狭守護。
- 山名俊豊 - 備後守護。父・政豊が赤松氏との戦争の最中に出陣。
- 一色義秀 - 父・義直が武田国信に若狭小浜を与えられた事に抗議して下向、代理として参戦。
- 大内政弘 - 自身は上洛せず、代わりに家臣の間田弘胤を派遣する。
- 赤松政則 - 重臣の浦上則宗と共に出陣。
- 京極政経 - 配下の国人衆が寺社領を横領した為、家督を甥・高清に変えられる。
- 細川政元 - 出陣に消極的で、代わりに家臣の安富元家を派遣する。第二次征討で元家は近江守護代に任命されるが、ゲリラに苦しめられ辞任。
- 富樫政親 - 出陣中に加賀に騒乱が起こり戻るが、加賀一向一揆に攻め込まれて自殺。
結果
2度の討伐失敗、翌明応2年(1493年)に細川政元が将軍・義材を廃した明応の政変により、幕府の権威は大きく失墜。首を挿げ替えられた前将軍義材は復権活動に終始する。討伐対象だった高頼はこの混乱に乗じて虎千代を追放、次いで守護に任命された山内就綱(政綱の子)との戦いも制して明応4年(1495年)に赦免を勝ち取った。
以後の畿内は、将軍職争いに端を発した戦乱(船岡山合戦など)に巻き込まれる。
旧東海道を、手原駅に戻ります
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