お城のデータ
丘陵城
遺 構:土塁・曲郭・削平基壇
現 状:山林
築城期:織豊期
築城者:毛枚氏(和田氏没後、築城か)
棚田山城は和田城と善福寺の中間にある丘陵に築かれている。和田川を伊賀街道の橋の伊賀から正面の丘陵に位置する。
頂部曲郭の背後を、堀切(空堀)で東西遮断、頂部平削地には「神社・六角の石燈籠と梵鐘」が東西10m×南北7mがある。
北側民家の奥には参道が設けられ、横堀と頂部曲郭に通じる(クリックすると拡大します)
また、和田川を伊賀街道の橋の正面の丘陵に位置し、街道から切岸状比高10mに、南尾根を開削し東西70m×南北30mの削平地(北側民家から登城道も明確。)があり、さらに3m上に東西10m×南北10mの削平地、東西5m×南北5mの削平地と3段の基壇が現存する。南尾根下に城道の確認できる。
和田谷には、和田城を本城に和田支城I・和田支城II・和田支城III・和田館・公方屋敷・公方屋敷支城・棚田山城・殿山城などの城砦群を残存する。
惟政死後、子の和田惟長は没落して和田領も取り上げられたが、後に毛枚氏が築城か?。
・・・・・信長公記・・・・
一巻 流亡将軍 一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事
義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。
越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。
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甲賀町志・日本城郭大系11・滋賀県中世城郭分布調査・遺蹟ウォーカー・甲賀市史(甲賀の城)、Wikipedia
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