=安土町石寺の繖山山麓 一・六キロの細道を整備=
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ウォークと史跡探訪=
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近江八幡市安土町石寺地先の繖(きぬがさ)山麓で十五日、古道「景清道」のウォークとその周辺の歴史に触れる催しが行われ、市内外から歴史ファンら約百人が参加した。
景清道は、平景清(平安から鎌倉初期の武士)が尾張国から京都清水寺の薬師詣りのためにつくったといわれる道で、桑実寺の薬師如来の開眼平癒のために日参した道とも伝わる。
同市豊かな杜づくり隊が整備に取り組んでいる。
この日は午前九時、石寺草の根ハウスを出発し、山麓の観音寺城御屋形跡までをウォーク。中井均県立大学教授の案内で途中にある石垣など、貴重な文化財を訪れ、解説に耳を傾けた。
同跡では、地元の子ども吹奏楽サークルの演奏や中井教授の歴史講話が開かれ、石垣城郭の先例として知られる観音寺城について知識を深めた。
穴太積の倒壊防止に排水口が!本丸の石段にも同じように排水口を設置している。
穴太積の倒壊防止に排水口が!
中井県立大学教授から史跡の説明に耳を傾ける参加者
山麓の観音寺城御屋形跡までをウォーク。中井均県立大学教授の案内で途中にある石垣など、貴重な文化財を訪れ、解説に耳を傾けた。
砕石の矢穴
教林坊
教林坊の墓地
観音寺参道
御屋形の石垣、間伐でよくみえる
同跡では、地元の子ども吹奏楽サークルの演奏
近江八幡市安土町石寺地先の繖山(きぬがさやま)山麓に残されている古道「景清道(かげきよみち)」の歴史にふれるウォーキングが15日参加した。
景清道は、平安末期~鎌倉時代の武士・平景清(藤原景清)が、尾張から清水寺(京都)の薬師如来に平氏再興の祈願詣でのために通った道と伝えられる。中でも奇寓(きぐう・一時的な仮住まい)していた近江八幡市中村町の旅庵寺から眼病の回復を祈願するため、桑貫寺(桑実寺町)の薬師如来に日参した道ともいわれており、途中の山本川には「景清橋」が架かっている。
近江八幡市内のうち、繖山山麓のルートは竹林や雑林で覆われて人通りがなく、街道沿いの遺跡や山寺などが点在する古道の姿が残されていることから、近江八幡市が里山整備に立ち上げた「豊かな杜づくり隊」が昨年十月から地元の人々、一般市民の参加も募って一・六キロメートル区間の整備作業を進めた。計五回の作業で通行を妨げていた竹や雑木の伐採、谷川を渡るルートの改修などを終え、人が通行できる歴史道を復活させた。
参加者らは午前九時、石寺草の根広場をスタートし、同行した中井均県立大学教授から古道沿いに残る古墳や石積み、山寺などについての説明に耳を傾けながら散策を楽しんだ。
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中井教授の講演に耳を傾けた。
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現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。
回数 | 年代 | 主な特徴 |
---|---|---|
築城当時 | 建武2年(1335年) | 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。 |
第1次改修 | 応仁・文明年間 (1467年 - 1487年) |
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。 |
第2次改修 | 大永5年(1525年) | 城といえる城郭が完成していたと推定されている。 |
第3次改修 | 天文元年(1532年) | 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が 誕生していたと推定されている。 |
第4次改修 | 天文19年(1550年)前後 | 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが 発掘調査から確認されている。 |
観音寺城は現在、正確な曲輪の数はわからないが1000箇所以上の曲輪があり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であったと見られている。山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。
これは六角氏の政治的立場と関係が深いと考えられている。もともとこの地域は自立意識の高い国人衆が多く、彼らと連合政権のような政治を実施していくために、城郭も広い屋敷をもつ曲輪が必要であったと思われている。
このため規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。
その後の観音寺城の戦闘年表
和暦 | 西暦 | 主な出来事 |
---|---|---|
文亀2年 | 1502年 | 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。 その後和議を結ぶ。 |
永正13年 | 1516年 | 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。 |
大永5年 | 1525年 | 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。 この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。 |
六角高頼
| |
---|---|
時代 | 室町時代 -戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 永正17年10月29日(1520.12.2)] |
改名 | 亀寿丸(幼名)→行高(初名)→高頼 |
別名 | 四郎(通称)、右兵衛入道 |
戒名 | 竜光院殿嘉山宗椿 |
官位 | 大膳大夫 |
幕府 | 室町幕府近江守護 |
氏族 | 六角氏 |
父母 | 父:六角久頼(六角政頼とも) |
妻 | 足利成氏の娘(山名宗全の娘)? |
子 | 氏頼、定頼、大原高保、和田高盛 梅戸高実、真玄、娘(足利義澄継室) 娘(今出川季孝室)、娘(京極材宗室) 養子:土岐成頼の次男 |
六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代から戦国時代の武将、守護大名。近江守護、南近江の戦国大名。六角久頼の子(異説では六角政頼の子)。氏綱、定頼、大原高保、和田高盛、梅戸高実、真玄らの父。名の「高頼」は室町幕府第11代湘軍足利義高(のちの義澄)より1字を賜って以降の諱であり、初めの名は六角行高(- ゆきたか)という(但し、書物等では、第9代将軍足利義尚による親征を受けた当時でも「高頼」と表記されることが多い)。
生涯
応仁元年(1467)からの応仁の乱では西軍に属し、東軍の京極時清らと亰都で戦っていたが、持清の嫡男勝秀及び家臣の多賀高忠と従兄の六角政堯が高頼の本拠地観音寺城を攻めると近江に戻り政堯や京極氏と交戦した(但し、応仁の乱の際に活動した亀寿丸は高頼とは別人で高頼の父とする立場もある)。やがて政堯を討ち取り、京極氏も持清・勝秀父子の相次ぐ急死でお家騒動を起こして弱体化(京極騒乱)、行高(高頼)は南近江の確保に努め、文明4年(1472年)、文明7年(1475年)の京極政経・多賀高忠との合戦で京極高清・多賀清直・宗直父子や土岐成頼・斎藤妙椿・斯波義廉らの援軍で勝利、応仁の乱終結後の文明10年(1478年)に幕府から近江守護に補任された。
応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して公家・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、公家領・寺社領や奉公衆の領地を横領して配下の国人衆に分け与えたため、9代将軍足利義尚らの反発を受け長享元年(1487年)に義尚の親征を受けて甲賀山中に逃亡した。延徳元年(1489年)に義尚が没したため親征は中止、10代将軍足利義材(のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰したが、国人衆が横領した所領を返還しなかったため延徳3年(1491年)に義材による再度の追討(長享・延徳の乱)を受ける羽目になってしまった。そして、再び領地を捨てて甲賀山中に逃亡した。
だが、明応2年(1493年)の明応の政変で義稙が廃立、第11代将軍として足利義高(後の義澄)が将軍に立てられる。この頃行高は2度目の追討を受け、守護になった山内就綱と戦っていたが、2年後の明応4年(1495年)、将軍・義高によって近江守護に復帰、同時に義高の偏諱を賜り高頼と改名した。直後に起こった船田合戦では石丸利光に与した為、勝者の斎藤妙純の近江遠征を招くが、延暦寺や北畠政郷らの支援を受けて結果的に危機を回避できた(妙純は土一揆に囲まれて戦死)。やがて足利将軍家との関係修復に努め、京都の騒乱から逃れた義澄(義高改め)を保護している。一方で、前将軍・義尹(のちの義稙)が大内義興・細川高国らの支援で義澄を追放して将軍に復帰すると、永正8年(1511)に義澄を匿った水茎岡山城主九里信孝を討ち取って義尹(義稙)支持を表明している。
永正3年(1506)、嫡男の氏綱に家督を譲って隠居した。氏綱は自身に先立って死去したが、僧籍にあった次男の定頼を還俗させて家督を継がせている。また、他の息子達は近江の奉公衆の養子に入れ、奉公衆を被官・組下に入れたりしている。息子の1人真玄は出家、聖衆来迎寺の中興に務めた。
晩年には筆頭家臣の伊庭貞隆との抗争に明け暮れた(伊庭氏の乱)。貞隆は文亀2年(1502)に細川成元、永正11年(1514)に浅井亮政の支援を受けて反乱を起こしたが、永正17年(1520年)に没落、直後に高頼自身も死去した。貞隆の没落と国人衆の組織化により六角氏の領国支配は固まり、定頼の代で全盛期を迎えることになる。
墓所
栗東市岡(キョーラク工場敷地内)に「佐々木高頼塚跡」として石塔が残る。高頼は青地城主のもとで隠居生活を送り、当地で死去した。
探訪「景清道を訪ねて」 安土篇2012.11.17 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/0bd84c865301e0e03d74ac7875f6bd2d
参考資料:景清伝記 - 近江歴史回廊倶楽部・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』