城郭探訪

yamaziro

楢埼(ならさき)氏の菩提寺 近江国(多賀)

2013年07月14日 | 居館
楢崎(ならさき)城
佐和山城の移築門は、敷居ない(馬で駆け抜けるため)
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町楢崎 map:http://yahoo.jp/fYrh5J
現 状:寺院・宅地・森林
区 分:平城
遺 構:土塁・石垣・水堀・大堀・佐和山城より移築門
築城期:室町期
再興期:江戸期
築城者:楢崎氏
再興者:彦根藩主 井伊家の家老、脇家・宇津木家
目標地:高源寺
駐車場:高源寺駐車場3台
訪城日:2013.7.13
 
:佐和山城から移築門
 
 
裏には、水堀が2重に(灌漑用溜池か)現在も確認できる。
西は、大横堀、南は2重の水掘、東は犬上川…北の守のみ!(自然の地形に横堀・水掘の防御備え)
 
お城の概要
 この寺は鎌倉時代に創建され、もとは天台宗に属し十福寺と呼んでいました。当寺の裏山には近江源氏・佐々木氏の四天王寺の一人として活躍した樽崎氏の館の跡が残っている。
 高源寺は、元楢崎氏の菩提寺の十福寺で廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
 発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
 楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 
墓地の突き当り勝楽寺城の東裾大横堀
 
移築門は、敷居ない(馬で駆け抜けるため)高源寺の背後尾根、前面の段築
 
 
歴史
 樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
 永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
 江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。

 平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
 江戸初期の慶長年間に京都妙心寺の高僧禿翁禅師を招き開山として、脇・宇津木両家の菩提寺としました。そして脇五右衛門豊久禄高三千石(法号 天徳院殿徹岩善随居士)宇津木治部衛門久豊禄高千五百石(法号 高源院殿良山全長居士)両氏の院号にちなんで、天徳山高源氏とし、臨済宗妙心寺派に属し現在に至っています。最盛時には大寺院で学僧五十有余が住した湖東における名刹でしたが、明治九年五月八日未明の火災により、総門だけはまぬがれましたが、他の伽藍はすべて灰燼となりました。
 総門は石田三成の居成であった佐和山城の裏門を移したもので文化財としての価値も高いといわれています。
 
鎌倉時代に創建された寺で、もとは天台宗に属し、十福寺と呼んでいた。
近江源氏・佐々木氏の四天王の一人として活躍した楢崎氏の菩提寺として当院が創建されたたものと推定されている。織田信長によって、佐々木氏が滅亡するや楢崎氏もこの地を離れ、それ以後廃寺になった。これを再興したのが、彦根藩主井伊家の家老の脇家、宇津木家の両家。両氏の院号にちなんで、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至る。
 〔大寺院で湖東における名刹であったが、しかしながら明治9年(1876)火災により、総門だけは災を免れたものの他の伽藍はすべて灰となった。総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門をうつしたものである。明治14年(明治の神仏分離令)多賀にあった正覚院、般若院、不動院を移した。
  また、茶人、井伊大老が始めたと伝えられる石州流直弼派‘一会流’の「茶筅(せん)塚」がある。塚は75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。
  当院には、井伊直弼を助けた「村山たか女」の肖像画がある。「村山たか女」は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに 井伊直弼と当院で出会ったと言われている。〕
源氏物語明石之巻襖絵・地蔵菩薩半跏像など
【その他】
「村山たか女肖像画」「絹本著色源氏物語明石之巻襖絵」300円
高源寺 高源寺
高源寺 高源寺

・村山たか女肖像画   ・絹本著色源氏物語明石之巻襖絵
村山たか女肖像画   絹本著色源氏物語明石之巻襖絵
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布、多賀教育委員会、近江の城、淡海の城、 
 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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