信長公記
巻十二
天正七年
この年信長公は近江国安土山で越年して新年を迎えたが、歴々の将領たちは摂津伊丹表に散らばる付城群に在番していたため、新年の出仕はなかった。
そのような中の正月5日、九鬼嘉隆が堺湊より安土へ上り来て、信長公へ年頭の御礼をおこなった。すると信長公は「今のうちに在所へ帰り、妻子の顔でも見たのちに上国するが良い」とかたじけなくも九鬼へ暇を下された。九鬼は信長公のはからいに感謝しつつ伊勢へ下っていった。
正月8日、信長公は小姓衆・馬廻・弓衆に命じ、馬淵①から切石三百五十余を運び上げさせた。
そして翌日、信長公はかれらに鷹野で得た雁や鶴といった獲物を分け与えた。いずれの者も、これらをかたじけなく頂戴したものであった。
2月18日になり、信長公は上洛して二条御新造へ座を移した。京での信長公は、21日に東山で鷹を放ったのち28日にも同じく東山で鷹野を行い、さらに3月2日にも賀茂山で鷹を使うといった様子であった。
そのような日々を過ごすうち、3月4日になって中将信忠殿・織田信雄・織田信包・織田信孝が上洛してきた。
①現滋賀県近江八幡市内
1、 春陣の日々 摂津国御陣の事
3月5日、信長公父子は摂津伊丹表に向けて出馬し、その日は山崎に陣を取った。翌6日は天神馬場①から路次すがら鷹を放ちつつ軍を進ませ、郡山に宿泊した。
そして翌3月7日、信長公は古池田②まで進み、ここに本陣を据えた。信長公に従う諸卒もこれに合わせて伊丹の四方に陣を取って攻囲を固めた。なお参陣した諸将の中には、不破・前田・佐々・原・金森ら越前衆の姿もあった。
一方中将信忠殿は加茂岸③・池の上の二砦を堅固に固めたうえで、四方に築かれた付城群の前衛に堀を作り、塀と柵を普請していった。
また3月13日には、高槻城番手衆の一人として派遣されていた大津伝十郎が病死するという変報がとどいた。
そのような中の3月14日、信長公は多田の谷④で鷹狩を行った。そのさい塩河勘十郎が一献を捧げたが、信長公はその返礼として道服を下された。かたじけなき次第であった。
3月晦日、信長公は鷹野に出、また箕雄の滝⑤を見物した。この日は信長公が連れていた十三尾の鷹のうちに足を痛めるものが出たということだった。このように信長公は逸物の鷹を多数取りそろえており、その秘蔵ぶりは並びないものであった。それらの鷹を引き連れて連日鷹野を行うには相当の体力が必要であったに違いなく、ひとびとは信長公の気力の強さに感服したものであった。
4月1日、中将信忠殿の小姓衆である佐治新太郎と金森甚七郎が口論を発し、佐治が金森甚七郎を刺し殺したすえに自らも腹を切って果てるという事件が起こった。両人とも年は二十歳ばかりの若者であり、神妙なる身の処し方に上下とも感じ入ったものであった。
4月8日、信長公はふたたび鷹野に出た。
このとき、古池田東の野で御狂⑥が行われた。信長公が供衆を二手に分け、馬廻・小姓衆を騎乗させ、弓衆は自身の周囲に配置して徒歩組とし、騎乗組が徒歩組の中に乗り入って来ようとするのを防ぐというもので、信長公は徒歩組と一緒になって騎乗組をさえぎり、しばしの間狂い騒いで気を散じたものであった。また御狂のあとは、すぐに鷹野が行われた。
同日、信長公は兵を播州方面へ派遣しはじめた。この日遣わされたのは越前衆の不破・前田・佐々・原・金森に織田信澄・堀秀政といった面々であった。続いて10日には丹羽長秀・筒井順慶および山城衆が進発し、12日には中将信忠殿・織田信雄卿・織田信包・織田信孝も馬を進めた。また猪子兵助・飯尾隠岐守の両人も播州三木城周辺の砦普請の検使として同勢に添えられ、播州へと下っていった。なお中将信忠殿が固めていた小屋野・池上砦の留守には、永田刑部少輔・牧村長兵衛・生駒市左衛門の三名が番手を命じられた。
4月15日、丹波路の明智光秀より馬が進上されてきたが、信長公は「日向にやる」といって光秀に返し与えた。
また17日には、関東常陸国の多賀谷修理亮が長四寸八分・年七歳、星河原毛の骨柄太く逞しき駿馬を東国よりはるばると献じてきた。三十里の道をも乗りこなすという評判の悍馬で、信長公はいたく喜び、青地与右衛門に命じて馬を調練させた。
このとき、信長公は青地に正宗の腰物を与えた。この正宗は元々佐々木氏が所蔵していたものを佐々成政が求め、黄金二十枚を費やして鞘巻きののし付き拵えに作り直して信長公へ献じたものであった。世間もうらやむ拝領物であり、かたじけなき次第であった。
なお、馬を献じた多賀谷修理亮には返礼として、
小袖五枚
縮 三十反
以上が遣わされ、また使者にも銀子五枚が与えられた。
4月18日、信長公は塩河伯耆守へ銀子百枚を与えた。塩河への使者は森蘭丸⑦が務め、中西権兵衛が副使として添えられた。過分なる果報であった。
このような中、稲葉典通が守る河原口⑧の砦へ伊丹の敵城から足軽が攻めかかってきた。これに対し織田勢からは塩河伯耆守・氏家直通が応戦に出、しばしの交戦ののち敵方の主だった侍三名を討ち取る功を挙げた。
同じころ、播州三木表でも城方から足軽が出撃し、これに中将信忠殿の軍勢が打ちかかって敵首数十を討ち取る勝利を得たという報がもたらされた。
また4月23日には、明智光秀が丹波で手に入れた巣子の隼が献じられてきた。
①現高槻市内 ②現池田市内(前出) ③現兵庫県川西市の最明寺川岸 ④現川西市内 ⑤現箕面市内 ⑥軍事調練に遊びの要素をまじえたものと推定 ⑦信長小姓として名高い森蘭丸は原文では「森乱」と表記されるが、ここでは一般的な「蘭丸」の名で通させていただきます。 ⑧現伊丹市内
2、伊丹の檻 京都四条こゆい町糸屋後家の事
この折、京都で前代未聞の事件があった。
下京小結棚町の糸屋の後家に歳七十ばかりの老女がおり、一人の娘とともに暮らしていた。
ところが4月24日の夜、娘は銘酒を手に入れてきて強引に母へ飲ませ、酩酊したところを土蔵の中に押し入れたうえ、夜更けの人が寝静まった頃合を見はからって刺し殺してしまった。そして自らの手で遺体を革籠に入れて厳重に縛り、法華宗徒の身ながら誓願寺①の僧を呼びよせ、人に知られぬようにして寺へ送り出したのだった。
このとき、母娘の家には一人の下女がおり、殺害を終えた娘はこの女に美しき小袖を与えて秘密を守るよう固く口止めしていた。ところが下女は後災を恐ろしく思い、村井貞勝のもとへ駆け込んで殺害の様子を残すところなく知らせてしまった。
通報を聞いた村井はただちに娘を捕縛し、事件を糾明した。そして4月28日には上京一条の辻より車に乗せて洛中を引き回したうえ、六条河原で成敗を下したのであった。
4月26日、信長公は古池田に出、ここで御狂をおこなった。この日は以前と同じ馬廻・小姓衆に加えて近衛前久殿・細川昭元殿も騎馬で参加しており、信長公はこれらの人数を二手に分けて存分に足軽の駆け引きを楽しみ、気分を晴らした。
そのころ、中将信忠殿は播州三木表にあって新たに六ヶ所の地へ砦を築き、その上で小寺藤兵衛政職の御着城②へ押し寄せ、攻囲を固めて放火を行っていた。そして28日には有馬郡まで馬を進め、そのまま野瀬郡③へ攻め入って田畑薙ぎを働き、翌29日になって古池田に帰陣してきた。
古池田に戻った信忠殿は、信長公へ播州表の首尾を報告した。すると信長公からは帰国を許す旨の沙汰が下りた。これを受けた信忠殿は当日のうちに東福寺④まで出、翌日には岐阜へ帰城を果たした。
また同じ頃、敵城のおうごう城に差し向かう砦の構築を終えた越前衆と丹羽長秀も古池田に帰陣し、信長公へ状況の報告を行った。これを受けた信長公は越前衆にも暇を与えて帰国させた。そして残った諸勢に伊丹表の定番を申し付けた。
このとき番手として定められたのは、以下の諸将であった。
一、塚口郷 丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷
一、塚口の東田中 福富秀勝・山岡景佐・山城衆
一、毛馬 細川藤孝・同忠興・同昌興
一、川端砦 池田恒興父子三人
一、四角屋敷 氏家直通
一、河原砦 稲葉貞通・芥川氏
一、賀茂岸 塩河伯耆守・伊賀平左衛門・伊賀七郎
一、池上 中将信忠殿の人数が替番
一、小屋野古城 滝川一益・武藤舜秀
一、深田 高山右近
一、倉橋 池田元助
以上のごとくであった。このように伊丹表には四方に付城が築かれ、それぞれ二重三重に堀を設け、塀と柵をもって厳重に警固が固められていた。
①現京都市中京区内、浄土宗 ②現兵庫県姫路市内 ③現大阪府豊能町・能勢町一帯 ④現京都市東山区
3、安土移座 二条殿・烏丸殿・菊庭殿・山科左衛門督・嵯峨策彦・武藤弥兵衛、病死の事
5月1日、信長公は京へ馬を納めた。この時期、京では二条晴良殿・烏丸光康殿・山科言継殿・嵯峨の策彦周良といった歴々が相次いで病死していた。
5月3日になり、信長公は安土への下りの途に着いた。このときの路程は山中越え①から坂本へ出、そこから小姓衆のみを引き連れて舟で安土へ帰城するといった道筋であった。安土に帰った信長公は、5月11日の吉日を選んで天主へ正式に移座した。
5月25日、播州では羽柴秀吉が海蔵寺砦②へ忍び入り、これを奪取することに成功した。またこれにより、翌日には近隣のおうごう城からも城兵が退去していった。
①京都市左京区から大津市内へ出る道 ②丹生山(現神戸市内)の朋要寺砦
4、安土宗論 法花・浄土宗論の事
5月中旬のことであった。浄土宗の霊誉という長老が関東より上国し、安土の町で法談を行っていたところ、談座に法華宗の建部紹智と大脇伝介の両名が乗り込んで問答をしかけてきた。
これに対し、霊誉長老は「若輩の方々に答えたとて、仏法の理が耳に入るはずもない。御両人の崇める法華坊主を出されるならば返答いたそう」と返した。そして七日間の法談の予定を十一日まで延ばし、その間に法華方へ使者を立てたのだった。
使者を受けた法華宗では、浄土宗と宗論を戦わせることを決した。そして京都から長命寺の日・常光院・九音院・妙顕寺の大蔵坊、堺の油屋常由の弟僧妙国寺、普伝といった歴々の僧衆が安土へ下り、また巷にあふれる法華の僧俗たちもこぞって安土に参集してきた。
この騒ぎは信長公の耳にも届くところとなった。この当時、信長公の御前に伺候する者の中にも法華宗徒は多数おり、このため信長公は命を下して両者を調停し、事態を穏便のうちに収めようとした。かくして菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一らが使者となり、両者の間に立って調停の意向を伝えることとなった。
調停のすすめに対し、浄土宗側はいかようにも上意に従う旨を返答してきた。しかし法華宗側は強気の姿勢をとって従わず、調停は不調に終わった。
もはや宗論は避けられない様相となった。すると信長公は「それならば当方から判者をつけるゆえ、勝敗は書付をもって当方の目に入れよ」と指示し、五山の内でも識見を知られる日野①の景秀鉄叟長老を判定人に招き、また折から安土に来ていた因果居士も判定人に加えた。
かくして安土の町外れにある浄土宗浄厳院②の仏殿で宗論が行われることとなり、織田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一の五名が寺中の警固を命じられた。当事者のうち、法華宗からは長命寺の日・常光院・九音院・油屋常由の弟妙国寺・普伝がおごそかなる法衣で身を包んで席に居並び、妙顕寺の大蔵坊が記録者として妙法蓮華経八巻と硯・料紙を携えていた。一方浄土宗からは関東の霊誉長老・安土田中③の貞安長老がこれも硯・料紙を携え、いとも質素な墨衣姿で席に臨んでいた。
そして、宗論が始まった。霊誉長老は「このような事態となったのはわが所為であるゆえ」として自分が論の口火を切ろうとしたが、そこを貞安長老が早口で遮り、みずから初問を立てた。双方の問答書もそれに合わせて筆記が開始された。
問答は以下のごとくに進んだ。
貞安問う 法華八軸の内に念仏はありや。
法華答う 念仏あり。
貞安曰く 念仏の義あらば、何ゆえ法華は念仏無間地獄に落ちると説くや。
法華曰く 法華の弥陀と浄土の弥陀とは一体や、別体や。
貞安曰く 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。
法華曰く 左様ならば、何ゆえ浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛」として捨てるや。
貞安曰く それは念仏を捨てよというにあらず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。
法華曰く 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。
貞安曰く 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
-法華の無量義経には、以方便力、四十余年未顕真実④とあり。
貞安曰く 釈尊が四十余年の修行をもって以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか⑤。
法華曰く 今言うは、四十余年の四妙中のいずれや。
貞安曰く 法華の妙よ。汝知らざるか。
-法華返答なし。閉口す。
貞安重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。
-重ねて問いしところ、無言。其の時、判者を始め満座一同どうと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。天正七年己卯年五月二十七日辰刻。
宗論は終わり、関東の霊誉長老は扇を開いて立って一舞を舞った。一方「妙」の一字の返答に窮した長命寺日は散々に打擲され、妙法蓮華経八巻も見物の群衆によって粉々に破り捨てられてしまった。集まっていた法華衆徒も四方へ逃げ散ったが、諸口・諸渡しに追手がかけられ、捕らえおかれる者も出る事態となった。
宗論の顛末は、事前の指示通り書付をもって信長公に提出された。すると信長公は時を移さず、当日午刻に城を下りて浄厳院に座を移した。
寺内に入った信長公は法華方と浄土宗の双方を召し寄せ、まず関東の霊誉長老へ扇を与え、次いで田中の貞安長老にも団扇を下されて宗論の勝利を称えた。また判者をつとめた景秀長老には、先年堺より献上された東坡の名杖が贈られた。
そのあとで、信長公は大脇伝介を召し出した。そして伝介に申し渡した。
「本来一国一郡の身であってもはばかりあるものを、おのれは卑俗なる塩売りの町人の分際でこのたび霊誉長老の宿泊先をつとめた。でありながら長老とねんごろにしようともせず、あまつさえ人にそそのかされて問答さえ仕掛け、巷を大いに騒がせた。このこと不届き極まる次第である」
かくのごとく申し聞かせたのち、信長公は伝介を斬罪に処した。
次に信長公は普伝を召し出し、近衛前久殿が雑談中にたびたび普伝の話を持ち出していたことを聞かせた。
もともと普伝は九州より上り来た者で、昨年秋から都に滞在していた。一切経のどこそこの箇所に何々の文字がある、といったことを空で言えるほどの博学と評判の人物で、宗派はいずれにも属していなかったが、それでも「八宗を兼学したが、法華はよき宗なり」とは常々口にしていた。しかしこの場で信長公から宗門のことを聞かれると、「いずれの門家にもなりましょう」と答えるのみであった。
また近衛殿は普伝の行動について、「あるときは紅梅の小袖、あるときは薄絵の衣装などを身に着けており、自分の着ている破れ小袖などを、結縁であるといってよく人に与えている」と話した。しかしこの話は一見殊勝に聞こえたものの、よくよく聞いてみれば小袖は実は借り物で、まがいものの破れ小袖であったことが判明した。
普伝の企みは、次第に明らかとなった。法華宗徒は「かほどに物知りの普伝さえ聞き入り、法華宗となった」と評判が立てば法華も繁盛するであろうと考えて普伝に協力を頼み、普伝も多額の賄賂と引き換えに日蓮党となることを承諾したのであった。老境に至ってこのような虚言を立てたことは、まことに年不相応というほかなかった。
信長公は、「宗論に勝った暁には終生にわたって身上を保証するとの確約をもって法華宗に招かれ、届も出さずに安土へ下ったこと、日頃の申し様と大いに異なる曲事の振舞いである」と普伝を責め立てた。そして「その上みずから法問を立てることもせず、他人に宗論をまかせた。これは法華方が優勢になった時のみ自分も出ればよいと算段した上での行いであり、その性根の弱さは不届きというほかない」等々の罪責を申し渡し、普伝をも斬首に処したのであった。
さらに信長公は残った法華僧に対し、「侍たちが日々軍役を務めて辛酸を舐めている横で、汝ら寺庵衆は安穏として贅沢をなし、学問もせず、ついには妙の一字の解釈にも詰まる体となった。このこと曲事に尽きる。しかしながら法華宗は口上手であるゆえ、今後も宗論に負けたとは決して申さぬであろう。ならば本日敗れた証拠として、汝らは宗門を変えて浄土宗の弟子となるか、それとも今後決して他宗を誹謗せぬ旨の墨付を提出するか、いずれかを選ぶべし」とせまった。
法華僧は、これを請けざるを得なかった。かれらは信長公に対し、
敬白 起請文の事
一、今度江州浄厳院において浄土宗と宗論し、法華の負けとなりしゆえ、京の坊主普伝ならびに塩屋伝介討ち果たされしこと、相違なし。
一、向後他宗に対し一切の法難をしかけざること、誓約す。
一、法華に一分の理を与えられしこと感謝の至りと心得、法華上人衆については一度その位を辞し、改めて任ぜられるべきこと、承諾す。天正七 五月二十七日 法華宗
との誓紙を差し出した。
かくして法華宗は、宗論に負けたことをみずから書面に書き残してしまった。「負」の字は今後末代に至るまで女童にも知られる形で残ることになってしまったわけであり、歴々の法華僧たちは「かわりの言葉などいかほどもあったものを。落度であった」と後悔することしきりであった。一方諸人はその後悔の様子を見聞きし、なおさら笑いの種としたものであった⑥。
なお建部紹智は堺湊まで逃れていたが、やがて追手によって捕らえられた。今回の騒動はそもそも建部と大脇伝介によって引き起こされたものであったため、建部も大脇同様に斬首に処せられることとなった。
①現京都市伏見区醍醐日野の正明寺 ②現滋賀県安土町内 ③現安土町内田中の西光寺 ④「四十年修行してもいまだに真実があらわれず、悟りを開けない」というほどの意らしい。 ⑤「釈尊が四十余年の修行をもって法華経のみを真実とし、それ以前の経を捨てたと主張するのなら、汝は法華経成立前の概念である「妙」(人知では計り知れないものを象徴する)の一字を捨てるのか」という意らしい。 ⑥宗論自体は法華宗の優勢であったと記す書もあり、法華方の負けとされたのは信長の策略によるものと考えられている。
5、波多野成敗 丹波国波多野兄弟張付の事
丹波では明智光秀が去年より波多野秀治の館を包囲し、三里四方に堀を作り、堅固な塀・柵を幾重にも設けて攻め立てていた。この長陣によって籠城していた城兵は飢え、最初は草木の葉を噛み、後には牛馬をも食したが、やがて餓死しはじめた。耐え切れなくなった城兵は無謀にも城を討って出てきたが、明智勢はそれらをことごとく斬り捨て、ついには調略をもって波多野兄弟三名を召し捕ることに成功した①。
そして6月4日、兄弟は安土へ送られ、慈恩寺の町外れで磔刑に処された。人々は信長公の果断なる処置に戦慄したものであった。
6月13日、丹後の松田摂津守が巣の子の隼二羽を進上してきた。その後18日には中将信忠殿が安土へ挨拶に上ってきた。
また6月20日、信長公は伊丹表に在陣する滝川一益・蜂屋頼隆・武藤舜秀・丹羽長秀・福富秀勝の五人衆のもとへ青山与三を使者に送り、彼らにかたじけなくも端鷹三連と小男鷹二羽を与えた。
6月22日、羽柴秀吉の与力として付けられていた竹中半兵衛が播州の陣中で病死し、名代として馬廻を務めていた弟の竹中久作が播州へ派遣された。
その翌日の6月24日、信長公は先年丹羽長秀に与えた周光茶碗を召し上げ、代物として鉋切の腰物を与えた。鉋切は長光作の銘刀で、由緒ある逸品だった。
その後7月に入ると、3日に伊丹の陣で武藤舜秀が病死するという出来事が起こった。また6日・7日の両日には安土城内で相撲が開催された。
7月16日、徳川家康より酒井左衛門尉忠次・奥平九八郎信昌が使者として遣わされ、信長公へ馬を進上してきた②。また使者である奥平・酒井の両名もそれぞれに馬を進上した。
その後の7月19日、信長公は中将信忠殿に指示し、津田与八・前田玄以・赤座七郎右衛門の三名に岐阜で井戸才介を殺害させた。井戸は妻子を安土へ移そうともせず、自身も所々の他家を転々とする毎日で、安土では中々見かけぬ無奉公者であった。その上に先年偽書をもって深尾和泉を応援するなどの曲事が重なったため、このたび成敗の憂き目を見ることになったのだった。
それと同日の19日、明智光秀は丹後へ出陣した。明智勢進入の報に接した敵の宇津頼重は城を出て退却していったが、光秀は軍勢を進めてこれを追撃し、数多を討ち取ることに成功した。斬獲された首は安土へ送られた。
その後明智勢は鬼箇城③へ攻め寄せて近在を放火し、周囲に付城を築いて軍勢を入れ置いた。
①原文「調略を以て召捕り」。『総見記』では光秀が母を人質にして波多野兄弟と和睦し、そのため兄弟が殺害された後に光秀の母も城兵に殺されたと伝えるが、『太閤記』では光秀に調略された城兵が助命と引き換えに兄弟を捕らえて差し出したとされている。『太閤記』の内容のほうが、調略としては自然に思われる。 ②この際、信長は酒井忠次に家康嫡子松平信康の武田氏通謀の噂を確認している。これにより信康は9月15日に切腹 ③現京都府福知山市内
6、日向守面目 赤井悪右衛門退散の事
8月9日、丹波路の明智光秀が赤井悪右衛門直正の籠る黒井城①を攻囲したところ、城内から兵卒が討って出てきた。しかし光秀は逆にこれに付け入り、一気に攻め立てて外曲輪まで乱入することに成功した。この戦闘で明智勢は大身の侍十余人を討ち取り、残った城兵は降伏して城を退去していった。
光秀は上の次第を信長公へ詳細に言上した。これに対し、信長公は「永年丹波に在国しての粉骨の働きと功名の数々、比類なきものである」として感状を下された。誠にかたじけなき次第であり、面目これに過ぎたるものはなかった。
7月18日、出羽大宝寺氏の使者が駿馬を揃えて上国し、信長公へ馬五頭・鷹十一連を進上した。鷹の中には白鷹も一連入っていた。
7月25日、今度は奥州の遠野孫次郎という者から白鷹が進上されてきた。鷹居の石田主計が北国の船路を風雨を凌いではるばる進上してきたもので、雪のような白毛に包まれた鷹であった。その容姿はすぐれて見事で、見る者はみな耳目を驚かせ、信長公の秘蔵もひとかたならぬものがあった。
またこれと同じくして出羽千福の前田薩摩という者も鷹を据えて上国し、信長公へ参礼したのち鷹を進上していった。
7月26日、信長公は石田主計・前田薩摩の両名を召し寄せ、堀秀政邸で饗応を行った。相伴者には津軽の南部宮内少輔もいた。饗応後、信長公は客達に安土の天主を見物させたが、かれらは一様に「かように素晴らしきさま、古今に承ったこともない。まことに生前の思い出、かたじけなし」と嘆息したものであった。
さらに信長公は、遠野孫次郎方へ当座の返礼として
一、御服十着 織田家の紋入り上等品で色は十色、裏着もまた十色。
一、白熊二付
一、虎革二枚
以上三種の品を贈り、使者の石田主計にも御服五着と路銀の黄金を与えた。また前田薩摩にも同様に御服五着に黄金を添えて与えられた。両人はかたじけない恩恵にあずかりつつ奥州へと下っていった。
8月2日、信長公は以前に安土で法華宗徒と宗論を行った貞安長老へ銀子五十枚、浄厳院の長老へ銀子三十枚、景秀鉄叟長老へ銀子十枚、関東の霊誉長老へ銀子十枚をそれぞれ贈り遣わした。これもかたじけなき事であった。
8月6日、信長公が近江国中の関取を召し寄せて安土で相撲を見物したところ、甲賀の伴正林という歳十八、九ほどの者が良き相撲を七番まで取った。相撲は翌日も行われたが、伴はその日にもすぐれた技量を見せた。これにより伴は御扶持人に取り立てられることとなった。
ところでこの折、鉄砲屋の与四郎という者が信長公より懲罰を受けて投獄されていた。このため信長公は伴を取り立てるにあたって与四郎の私宅・私財・雑具を彼に与えてやり、加えて知行百石および熨斗付の太刀・脇差の大小二刀、さらに小袖と皆具付きの馬まで添えて下された。まことに名誉の次第であった。
一方その頃、北国では柴田勝家が8月9日に加賀へ攻め入り、阿多賀・本折・小松町口までを焼き払っていた。柴田勢はその上で周辺の田畑を薙いで帰陣したとのことであった。
8月20日、中将信忠殿は兵を動員して摂津表へと出馬した。そして当日は柏原に宿泊し、翌日になって安土へ出た。軍勢は安土で信長公から堀秀政を添えられ、そののち小屋野に至って着陣した。
①実際には赤井悪右衛門直正は前年に死亡。城は直正弟の幸家が直正の子を後見して守っていた。黒井城は現兵庫県春日町内
7、西国陣変転 荒木伊丹城・妻子捨て忍び出づるの事
9月2日夜、荒木村重は五、六人の供のみを連れて伊丹有岡城を密かに脱出し、尼崎へ移った。
9月4日には播州より羽柴秀吉が安土へ上り来て、信長公へ「備前の宇喜多直家より赦免の条々を申し入れてまいりましたゆえ、何とぞ御朱印を下されますよう」と言上した。しかし信長公は「わが命を伺わずして赦免を示し合わすとは、曲事なり」と怒り、即刻秀吉を播磨へ追い返したのだった。
9月10日、播州の御着・曾根・衣笠①の敵勢が一手となり、三木城へ兵粮を入れようと企てた。すると三木城に籠る城兵たちもこの機を逃さず突出し、谷大膳の陣所へ攻め入って大将の谷を討ち果たす働きを見せた。これに対し織田勢からは秀吉みずからが立ち向かい、敵勢へ切りかかって一戦に及んだ。この戦で秀吉勢は別所甚大夫・別所三大夫・別所左近尉・三枝小太郎・三枝道右・三枝与平次・通孫大夫らの首を挙げ、また名は知れぬものの安芸・紀伊の侍数十人をも討ち取ることに成功し、大利を得たのであった。
9月11日、信長公は安土を出て上洛した。今回は陸路瀬田を通っての出京であった。そして逢坂まで進んだところで、播州三木表で合戦があり羽柴勢が敵首数多を討ち取ったとの勝報が届いた。秀吉は先般安土から追い返されたことを無念に思い、それゆえ合戦を励んで今回の勝利を得たのであった。報を受けた信長公はかたじけなくもみずから書状をしたため、「三木の落着もいよいよであるゆえ、攻囲を詰め、虎口の番等はくれぐれも油断なく申し付けることが肝要である」と秀吉に書き送った。
なおこの時期、相模の北条氏政の弟大石源蔵氏照②が鷹三連を京まで送り、信長公へ進上していた。
9月12日、中将信忠殿は伊丹に在陣する軍勢の半数を率いて尼崎へ攻め寄せ、尼崎城にほど近い七松という地に二ヶ所の砦を築いた。そして塩河伯耆守と高山右近を組として一方の定番に入れ置き、もう一方には中川清秀・福富秀勝・山岡景佐を組として守らせ、そののち小屋野へ帰陣した。
①現姫路市~高砂市 ②原文「氏直」で、氏照の誤記。氏照は大石氏の養子となっていたため、大石源蔵(源三)氏照と称される。
8、俗世検校 常見検校の事
9月14日、京の座頭衆から申し事があった。その内容は、<摂州兵庫に常見という分限者がおり、あるとき「金貸しのたびに失敗を重ねていては、こちらの身代が尽きてしまう。何か一生を楽々とたのしむ方法はないか」と考えをめぐらした。その結果、眼も悪くないのに銭をもって検校①となり、都に移り住まおうと思いついた。そして検校衆へその旨を申し入れ、銭千貫を積んで検校職を手に入れ、今では常見検校と号して座頭衆から認可料を取って都で悠々と暮らしている。>
というもので、小座頭たちは「今までは法度によって長らく業を続けていられました。しかしこのような形で富裕な者が検校位を手にするようになっては、金銀賄賂がまかり通って折角の秩序も乱れてしまいましょう」と申し述べた。さらに小座頭たちの言うところでは、常見は貸金の際には秤を重くして余分に金を取る不正さえ働いているとのことであった。
座頭たちは、以上の次第を信長公へ訴え上げた。すると信長公はこの訴えを聞き入れ、「検校共の行状の数々、曲事である」として検校を成敗しようとした。しかし検校側がさまざまに詫言をして黄金二百枚を進納したため、信長公は赦免を与えたのだった。
①検校は盲目の人がつく最高位の官職で、公認で金貸などを行っていた。
9、上下豊楽 宇治橋懸けさせらるるの事
訴訟ののち、信長公は検校が進上した黄金をもって宇治川平等院前に橋を架けることを決めた。そして築造を松井友閑・山口甚介に命じ、「後代のためである。丈夫に架橋せよ」と申し聞かせた。
なお以前に浄土宗と法華宗が宗論を行い、法華側が敗北とされたことにより、信長公のもとへは京の法華坊主から償金として黄金二百枚が献じられていた。信長公はこれを手元に召し置いておくのもいかがなものかと考え、伊丹表・天王寺や播州三木の付城群に在番して粉骨の働きを続ける諸将へ五枚・十枚・二十枚・三十枚と分け与えたのだった。
また9月16日には、青地与右衛門を使いとして滝川一益・丹羽長秀の両人に馬が与えられた。かたじけなき次第であった。
10、信雄殿御折檻 北畠中将殿御折檻状の事
9月17日、織田信雄殿は軍勢を率いて伊賀国へ攻め入り、かの地に成敗を加えようとした。しかし一戦に及んだところ、逆に柘植三郎左衛門を討死させる失態を犯してしまった。
その翌日の9月18日、京の二条御新造では摂家・清華家の面々と細川昭元殿が蹴鞠を行い、信長公はこれを見物していた。
そして9月21日、信長公は京を出て摂津表へ出馬し、その日は山崎に宿陣した。翌22・23日は両日にわたり雨となったためそのまま山崎に滞留することとなったが、信長公はここで信雄殿に宛て、上方へ出陣せず私戦を起こしたことを叱責する内書をしたためた。
その文言は以下のようなものであった。
このたび伊賀国境において落度を取りしこと、誠に天道もおそろしく、日月の理もくつがえす振舞いである。このような行いに走ったのは、上方へ出勢すれば国中の武士や民百姓が難儀するゆえ国内で戦をすべきとの声があるのを幸い、そのようにすれば他国の陣を免れることができると考えて同調したためか。それとも、もっとありていに言えば若気の思慮の足りなさゆえ、国侍どもの申し様を真に受けてこのような戦を起こしたのか。いずれにせよ、まったくもって無念至極の行いである。上方への出勢は第一には天下のためであり、また父への奉公にもなれば兄城介信忠を大切にすることにもなる。何よりそのほうの現在未来のためにもなる戦なのである。それを行わずして他所で戦を起こし、あまつさえ三郎左衛門を討死させしこと、言語道断の曲事というほかない。汝がそのような覚悟でいるならば、もはや親子の縁を切ることさえ考えざるを得ない。以上、使者をもって固く申し渡すものである。
九月廿二日 信長
北畠中将殿
このような御内書を下した後の9月24日、信長公は山崎から古池田に陣を移した。そして27日になって伊丹の四方に築かれた付城群を巡視してまわり、小屋野の滝川一益陣所に暫時逗留した。その後はさらに塚口の丹羽長秀陣所まで足を運び、陣所でしばし休息したのち晩になって古池田に戻ったのだった。
そして翌9月28日になり、信長公は帰洛の途についた。なお、この日信長公は初めて茨木に立ち寄った。
転載 (ネット情報に感謝・感涙)