雲雀山砦 東浅井郡湖北町伊部
小谷山の南北国脇往還道を挟んで、隣接する位置にあり、姉川の合戦後は小谷城守備のため浅井大学之介らが入った。
所在地:東浅井郡湖北町伊部 map:http://yahoo.jp/91us0J
創築年:不明
創築者:浅井氏
区 分:平山城
遺 構:郭
面 積:150m×100m
標 高:145m 比差50m
訪城日:2013.4.3
信長の小谷城攻めの折には、虎御前山と共に最前線の砦として機能した。
現在は県道で寸断された形となっているが、当時は小谷山の波状尾根の一部として繋がりがあったと思われる。
山全体には多数の古墳が存在するものの、山頂付近は改修工事が加えられたと思われ、遺構は城郭研究家(長谷川博美氏)の説明なしでは確認できない。
立地的には虎御前山より遥かに小谷山に接近しており、ここまで攻め込まれたら落城を覚悟させるほどの威圧感があったものと思われる。
直線が県道、S字は北国脇往還道
ひばり会館で午前中、勉強会
ひばり山交流会館で、午前中勉強会(座講)後、現地見学会へ
山脇山 明知光秀の砦からの超遠望(大嶽城・小谷城・・・雲雀山砦)
縄張り:1997年 長谷川博美作図(城郭研究家)
―――――信長公記 巻三 死地へ たけくらべかりやす取出の事
越前朝倉氏の後援を得た浅井長政は、長比①・苅安②の地に要害を構えていた。この両砦に対し信長公は地元の豪族堀秀村と樋口直房を調略し、かれらに内応を約させることで砦の無力化をはかった。そうして6月19日、信長公は浅井氏を討つべく大兵を率いて岐阜を発ち、手始めとして長比・苅安両砦の攻略に向かった。しかし織田勢の来攻と堀の謀叛を知った城兵はたちどころに士気を萎えさせ、取るものも取り敢えず退散してしまった。信長公は難なく長比に入り、この地に二日間滞在した。
6月21日、長比を出た信長公は浅井の本拠小谷まで攻め寄せた。織田勢のうち森可成・坂井政尚・斎藤新五・市橋長利・佐藤六左衛門・塚本小大膳・不破光治・丸毛長照は雲雀山③へのぼり、山麓の町を焼き払った。
信長公はその他の諸勢を引き連れて虎御前山④に陣を据え、柴田勝家・佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀および江州衆に命じて近在の諸所へ余すところなく火を放たせた。
翌22日、小谷を前に信長公は一旦兵を後退させることを決意し⑤、殿軍に鉄砲五百挺と弓衆三十余りを据え、簗田左衛門太郎広正・中条将監・佐々成政の三名を奉行として指揮を命じた。
すると、総軍の後退に気づいた敵足軽が攻め寄せてきた。殿軍のうち簗田広正は中軍より少し左手を後退していたが、肉薄してきた敵勢を引きつけて応戦し、散々に打ち合った。このとき簗田勢の太田孫左衛門は敵首を挙げて引き揚げ、信長公より多大な褒賞にあずかった。また佐々成政は八相山 ⑥の矢合神社前で敵に捕捉されたが、これも見事な武功を挙げて無事撤収に成功した。
さらに中条将監は八相山下の橋上で敵と衝突したが、将監は敵勢の攻撃により負傷してしまった。また中条又兵衛も橋上で敵ともみ合いになり、双方とも橋から落ちた。しかし又兵衛はひるまず、橋の下でさらに戦ったのち見事その敵の首を挙げた。比類なき高名であった。信長公はこれら後衛の奮戦によって無事後退することができ、その日は八島に陣を取った。
小谷城に近接する横山城⑦には高坂・三田村および野村肥後の勢が籠っていた。24日になって織田勢はこの城に取り寄せて城を四方より囲んだ。そして信長公自身は竜が鼻⑧に陣を取り、小谷を見据えた。
備考
①現滋賀県山東町内。「たけくらべ」と読む ②現伊吹村内 ③現湖北町内、小谷城南 ④現湖北町虎姫山 ⑤戦線整理または浅井勢を誘導して野戦に持ち込むため ⑥虎御前山南の中野山 ⑦現長浜市石田町内。交通の要衝 ⑧現長浜市内
小谷山の南北国脇往還道を挟んで、隣接する位置にあり、姉川の合戦後は小谷城守備のため浅井大学之介らが入った。
信長の小谷城攻めの折には、虎御前山と共に最前線の砦として機能した。
現在は北国脇往還道で寸断された形となっているが、当時は小谷山の波状尾根の一部として繋がりがあったと思われる。
山全体には多数の古墳が存在するものの、山頂付近は改修工事が加えられたと思われ、遺構は確認できない。
立地的には虎御前山より遥かに小谷山に接近しており、ここまで攻め込まれたら落城を覚悟させるほどの威圧感があったものと思われる。
雲雀山古墳で集合写真+撮影の管理人
小谷城出丸が見えます
遠望・・・小谷城出丸・・・北の虎口を下る
【白い馬酔木】の遠望は信長の虎御前砦!
古谷神社の本殿裏から、攻め込み!
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。