城郭探訪

yamaziro

菅山寺 近江国(余呉) 

2013年09月17日 | 探訪「大地の遺産」

     山上の駐車位置(大きなスペースあり)

この先は土砂崩れ通行不可土砂崩れ現場 

山上駐車場の説明板(管山寺城の説明はありません)   

近江名所図会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 近江名所図会(おうみめいしょずえ)は、江戸時代に近江国を紹介した案内記(ガイドブック)である。

1815年(文化12年)の刊行。秦石田と秋里籬島が編集、蔀関月と西村中和が画を担当したとされているが、実際は、『木曽路名所図会』『伊勢参宮名所図会』『二十四輩順拝図会』から近江関係の記事を抜粋してまとめたもの。全4巻。別名として「琵琶湖勝概全覧図会」とある。

当時の習俗・風俗が詳細されており、民俗学・歴史地理学の格好の資料である。

             

さて・・・これから向かう管山寺だが・・・。

『管山寺』

山号は大箕山。
近江湖北二十七名刹巡礼第一番札所。
管山寺は当初、龍頭山大箕寺と呼ばれ、天平宝字8年(764年)に照檀上人が孝謙天皇の勅命を受けて建立されたと伝わる。当時は法相宗だったが、のちに真言宗となり今に至っている(真言宗豊山派)。
その後、菅原道真により中興した。道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳まで本寺で勉学し、寛平元年(889年)から3院49坊の寺院に復興、名も管公の一字を採り大箕山管山寺と改められたと伝えられている。藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、僧房105末寺70余の極めて大きな寺であった。

管山寺に現存する建物は全て江戸時代の建造物である。現存の本堂は元禄5年(1692年)の建立。天正10年(1582年)の大地震、賤ヶ岳の戦い等で大破したが、一山の衆徒の手厚い志により再建された。

明治以降は衰退し、現在まで無住となっているが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされている。

宝物は・官山寺 弘善館(里坊)

石仏がお出迎え。首から上は殆どない?

  

 

管公お手植えの檜

    

 大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千三00年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

                     

                        

この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

  

   

車で・・・唯一のビューポイント 

 赤子山スキー場のリフトの最上部!

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


探訪【琵琶湖の雫・鏡湖の天女羽衣伝説をゆく-余呉湖=ヨゴイチ】2013.9.14

2013年09月17日 | 探訪「近江水の宝」


探訪「近江水の宝 鏡湖の天女羽衣伝説をゆく-余呉湖」

余呉湖周辺の伝説や文化財等をめぐります。また余呉湖一周「ヨゴイチ」連動企画です。探訪に参加し、完歩すればもれなく「ヨゴイチ」達成者となれます。直接城跡とは関わりませんが、賤ヶ岳の麓を歩きますので、興味のある方はご参加ください。


日時 平成25年9月14日(土)
    A班(ヨゴイチコース)    9:15~12:00 プラスコースは12kmです。
    JR余呉駅集合・解散


持ち物 健康保険証・水筒・タオル・ウォーキングできる服装など。定員 A班~D班 各30名ずつ全120名(事前申込 先着順)
実費負担 ヨゴイチプラス 600円(拝観料・資料代ほか)。
  滋賀県教育委員会文化財保護課記念物担当
         

湖国近江にはもうひとつの湖があります。琵琶湖の雫(しずく)・余呉湖。

戦国史上に有名な賤ヶ岳の麓にあって、その澄んで美しいさまは鏡湖と称されてきました。

数々の伝説を映す神秘の湖でもあり、『帝王編年記』養老7年(723 年)条には、この湖を舞台として伊香刀美と天女をめぐる白鳥伝説(羽衣伝説)が語られ、江戸時代には桐畑太夫伝説菅原道真伝説菊石姫伝説を生み出していきました。

JR北陸線余呉駅集合

余呉イチ・プラスコースA班出発式(今回総参加者120名+スタッフ20名)

琵琶湖から賤ヶ岳のよって隔てられた北の湖、「余呉湖」。"鏡湖"とも称され、凪いだ湖面には四季折々の山の姿を映し出します。

その湖の美しさに惹かれて、天女が水浴びに降りてきたという伝説があります。
道真誕生伝説『日本地誌大系』

昔、湖辺の村・川並に桐畑太夫という漁師がいた。
あるとき、芳しい香りにひかれるまま、一本の柳に歩み寄ると、色鮮やかなうすものが掛かっている。
うすものを取った太夫が振り返ると、美女がいて「私は天国の者。余呉の湖の美景に憧れて年に一度、水浴びをしています。どうか羽衣を返してください。」と懇願した。が、太夫は羽衣を隠して返さない。争った果てに美女は天に帰ることを諦めて、太夫の妻になった。

 

天女は天上界のことばかり思って、涙のうちに暮していたが、やがて、玉のような男の子を産んだ。ある日、「おまえの母は天女様 お星の国の天女様 おまえの母の羽衣は 千束千把の藁の下」と子守が歌うのを聞いた。裏庭の藁の下を探すと、案の定、羽衣があった。天女は大いに喜んで羽衣をまとい、天上遠く飛び去っていった。菅山寺の僧・尊元阿闍梨は、この話を聞き、母のないおさなごを憐れんで、寺に連れ帰って養育した。この子どもはのちに、菅原是善卿の養子となった。すなわち菅原道真である。となったという伝説もあります。

この他、日本最古といわれる伊香刀美が主人公、『帝王編年記』養老7年(723年)条には、この湖を舞台として伊香刀美と天女をめぐる白鳥伝説(羽衣伝説)も伝わっています。

現在でも余呉湖の北岸には天女が羽衣を掛けていたという柳が残されていて、その近くにはこの伝説にちなんで天女をかたどった像も設置(平成6年設置)されています。

この柳、私たちがイメージする柳とは少し違います。この柳は日本でよく見る枝垂れ柳ではなく中国系のマルバヤナギという種類です。

そして、天女が水浴びをしたとき、羽衣をかけた柳の樹は今も余呉湖畔に残されています。

賤ヶ岳合戦図(後は堂木山砦?)

 

余呉湖は、周囲6.3kmの「俳句の道」

 

湖辺の村・川並に桐畑太夫の屋敷跡(森)

川並集落の湖岸・・・25年位前まで、田んぼ畔に・・・(稲や藁を柱に井げたに積んでました。)

冬、雪の車窓のから綺麗でした!(圃場整備や機械化で、余呉湖周辺でここだけに残ってました)

 

「菊石姫と蛇の目が石」の説明板

「菊石姫の枕石」は新羅の森近くの湖岸に祀られています。

残った片目が落ちて跡が残ったという石も「目玉石」と呼ばれて、今も見ることができますが、「目玉石」は余呉湖の水中にあるので直接は見ることはできません。
この目玉石、日照りで困ったときに湖から上げて新羅の森に運んで祈ると不思議と雨が降り出すそうです。

~~今も菊石姫は湖の底で余呉湖周辺の平穏を祈りながら静かに眠っている。

詳しくは・・・http://www.biwa.ne.jp/~okumura/legend/HTML/1.html

 

蛇の枕石
この椎の木の下の水の中にある。干ばつにならないと見えない

 

新羅崎の森・・・まっすぐにブイが!左側はヘラ池です 秋の七草【ススキ】と余呉湖

 

建物には、「余呉湖水質改善対策間欠式空気揚水筒管理室」という銘板が鉄製観音扉の横。

   
この建物を軸としたシステムの概念説明図がこれらの写真。
簡単に言えば、余呉湖の深いところにブクブクと空気を送り込み、水の中に溶け込んでいる酸素の減少を防ぎ、アオコなどの発生防止を狙っているそうです。

もろもと閉鎖系の自然湖だった余呉湖では、時として洪水が発生したそうです。また余呉湖周辺地域の利水の問題もあって、余呉湖という自然湖のダム化が図られたのだとか。現在の余呉湖は「ダム」でもあるのです。このことを今回の探訪企画に参加してはじめて知りました。

マユミ満開

 

琵琶湖の水が汲み上げられて余呉湖に放出されることで余呉湖がダム湖となり、一方、この余呉湖の貯水が灌漑用水として放出されているのです。また、昔は余呉湖の近くを無関係に流れていた余呉川の水が余呉湖にも引き込まれ、再び放出されるという開発もなされているのです。これが、「近江 水の宝」、現代の一側面でもあるようです。
つまり「余呉湖の今」という一側面は治水灌漑に繋がるダム湖・余呉という観点でした。おかげで、今回設備外観のいくつかをスポット的に見て回ることもできました。

面積1.8km²(東西0.9km、南北1.8km)。琵琶湖の北端近くに位置する。琵琶湖と同時期に出来たと言われ、古琵琶湖に包含されていたものが、約3万年前に独立したと言われる。鏡湖(きょうこ)とも呼ばれていた。長らく閉鎖湖だったが、現在は長浜市余呉町北部を流れる余呉川からの水が1958年(昭和33年)に建設された導水路を介して流れ込み、湖からは2本の放水路で排水する。

琵琶湖とは、古戦場として知られる賤ヶ岳(標高422m)で隔てられているが、放水路の一つが流れ込んでいる。1970年頃より、琵琶湖から水をポンプアップするなどの施策が原因で富栄養化が進み、問題となっている。

 

 

湖岸に「賎岳暮雪」と刻まれた石が建てられていろ。

秀吉が戦を眺めいた

 

余呉湖畔の戦い(賤ヶ岳七本槍)激戦となった余呉湖西
 しかし、佐久間盛政軍の退却を支援した柴田勝政の軍が飯ノ浦に取り残されて居ることを秀吉は見逃していなかった。

柴田勝政が撤退を開始するのを待っていたのである。予想通り、盛政の本隊の無事撤退を見届けた勝政軍は盛政軍に合流すべく権現坂に向けて退却を始めた。

ここぞとばかりに秀吉軍は総攻撃を開始した。勝政軍の苦戦という状況を見て、盛政は一旦退いた本隊を再び勝政救援のため余呉湖畔へ向かわせた。

現在の国民宿舎余呉湖荘付近から川並集落付近にかけての余呉湖畔は両軍大激戦となり、湖畔は赤く染まったという。

世に言う「賤ヶ岳七本槍」など秀吉方戦功は、ほとんどこの余呉湖畔の戦いで立てられたものである。
盛政自身も湖畔に向かおうとしたまさにその時、信じられない事が起きたのである。

賎ヶ岳への登山口の標識。

「飯ノ浦切り通し」という場所を経由して賎ヶ岳山頂に至る山道です。


昨年ヘルスツーリズムin余呉・賤ヶ岳 2012.10.26 この道を下ってきたこと。

半周3km・・・国民宿舎「余呉湖荘」

飯浦送水遂道出口(琵琶湖からくみ上げられた水を余呉湖への放水口)

 余呉湖
湖面積              1.97km2
最大水深             13m
湖周囲長さ           6.2km
位置 琵琶湖より           47m高い
総貯水量          14,700千m3

余呉湖を余呉湖ダムとするシステム図
yogoko_1この案内看板は 下側が北 

琵琶湖と余呉湖との落差は 47m あります。

琵琶湖と余呉湖との高低差は 47m ある 農業用水を必要とするときは 琵琶湖より
揚水ポンプで揚水する
洪水時は堂木分水堰から余呉湖に流し、貯水する
高時川へは川並放水路より放流する 正に、堰堤を持たない大自然のダムである

Yogoko_2


Yogoko_3余呉放水遂道放水口=取水口(呑口)(岩崎山の下を余呉川へ)


Yogoko_4

川並放水ゲートは常用洪水吐き( 表層水越流式 )と放流ゲートで余呉湖の調整と灌漑用水を余呉湖放水路トンネルで余呉川頭首工へ送水している

 

岩崎山砦の歴史

岩崎山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで高山右近が布陣にしたところで、賤ヶ岳の戦いの激戦地である大岩山砦と隣接する。             大岩山砦に隣接する岩崎山砦の高山右近は、大岩山砦が落ちたと知ると、岩崎山砦を放棄し、北国街道を挟み堀秀政が布陣する東野山砦に逃避。

 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は夜半の暗闇に紛れて、集福寺坂~文室山~権現坂を経て、賤ヶ岳砦の北側を迂           回して中川清秀が立て篭もる大岩山砦を急襲し、砦を奪取した。

  翌21日未明には、岐阜城の織田信孝を攻めるために出陣していた羽柴秀吉が大垣からとって返し、大岩山砦の佐久間盛政を急襲し、佐久間盛政の“中入り”は失敗に終わった。

 佐久間盛政の大岩山砦の急襲と呼応して、玄蕃尾城からでて北国街道を南下してきた柴田勝家も狐塚に陣を構えるも、動けないまま前田利家の離反もあって柴田軍は総崩れとなった。
 岩崎山砦へは余呉町下余呉の、標高差50mほどの山、削平された曲輪らしきところを幾つか残る。

 ハイキングコースを山頂付近に階段状に曲輪が3~4段。当然の事ながら正面に行市山(行市山砦)が見えるように配置されている。

 また、山路正国等が布陣した天神山(天神山砦)、木下利久が布陣した堂木山(堂木山砦)が行市山の山裾と重なっており、臨場感は抜群である

一番手前の岩が、「烏帽子岩・お膳岩」と伝承される。
菅原道真が烏帽子を掛けたとされる岩と、供え物を載せたとされる岩。

昼食・・・余呉観光館・はごろも市

江土閘門ゲート施設(流入・流出調整ゲート)

余呉川管理事務所 


木炭墓の歴史講座 2013.9.15

2013年09月15日 | 歴史講座・フォーラム

チラシ 多賀 彦根 講演.docx;

多賀博物館で木炭墓の講座。
講師は丸山竜平先生。
世話人は田畑様「受講料無料」
 

平安の木炭墓群、有力者を埋葬? 滋賀・多賀で講演会(朝日新聞2013.9.18)

写真:発見された平安時代の和鏡「八稜鏡」の断片=長谷川博美さん提供拡大発見された平安時代の和鏡「八稜鏡」の断片=長谷川博美さん提供

 

 多賀町で5月に発見された平安時代の木炭墓群をテーマにした、NPO法人「自然と歴史ロマンの会」主催の講演会が15日、多賀町四手の町立博物館であり、考古学者の丸山竜平・元名古屋女子大教授(69)が被葬者像と、出土した鉄板について解説した。現場近くで見つかった平安時代の八稜(はちりょう)鏡についても報…

続きを読む  この記事の続きをお読みいただくには、会この記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。http://www.asahi.com/area/shiga/articles/OSK201309170156.html

平安後期の「木炭墓」11基出土 多賀の大谷遺跡 滋賀  (産経ニュース)2013.7.1

鉄板などが出土した大谷遺跡の「木炭墓」の一つ=多賀町富之尾

鉄板などが出土した大谷遺跡の「木炭墓」の一つ=多賀町富之尾

 ■有力者一族の墓所か

 埋葬した木棺の周囲が木炭で覆われた「木炭墓」とみられる平安時代後期(11世紀頃)の墳墓跡が多賀町富之尾の大谷遺跡から11基まとまってみつかり、町立文化財センターが発表した。墓地の取得や被葬者などについて記した「墓誌」や「買地券」とみられる鉄製の板も4点出土し、同センターは「この地方を支配した有力者一族の墓所だった」とみている。

 大谷遺跡は今年5月下旬、町道工事の際に大量の木炭が露出したため同センターが発掘調査し、遺跡として位置づけられた。これまでに400平方メートルの調査地内から、木炭墓とみられる遺構を11基検出した。大きいもので一辺1・2メートル、深さ1・3メートル程度の方形。このうち、4基から鉄板がみつかった。

 木炭は吸湿性に富むことから、埋葬した遺骨や副葬品などの状態を維持するのに使われたと考えられる。鉄板に文字が書かれていたかどうかはエックス線調査でも判明しなかったが、同センターは「中国から伝わった埋葬の習慣である買地券だとすれば、中国文化に精通していた一族の墓所だったのではないか」としている。

 元興寺文化財研究所(奈良市)の狭川真一研究部長は「立派な木炭墓が群をなし、複数の墓に買地券が納められた可能性があるなど、例えば犬上氏のようなこの地方に君臨した有力者の墓所だったと考えられる」と話している。

 
 
2013/9/15 午後13時~14時20分
彦根市民会館で考古学と城郭の講座を開催します。
講師は丸山竜平先生。高島の銅剣鋳型について。

上御殿遺跡記者発表(2013年8月)資料

これまで、古墳時代前期の竪穴住居、古墳時代前期の石釧、奈良時代後半から平安時代初めにかけての建物・倉庫群、旧河道から奈良時代から平安時代の人形代、馬形代、斎串、陽物代などの木製祭祀具、「守君舩人(もりのきみのふなひと)」と書かれた墨書人名土器など興味深い資料が出土しており、これらの内容については、資料の提供、公開を行ってきました。
今年度 4,000 ㎡を対象とした調査で、国内初となる双環柄頭短剣(そうかんつかがしらたんけん)の鋳型が出土しました。双環柄頭短剣の鋳型は、全国的に類例がなく、さらに銅剣の出土の少ない近畿地方北部での鋳型の発見は、弥生時代から古墳時代初めにかけての青銅器生産の一端を明らかにする興味深い資料と言えます。

あわせて現地説明会配布資料もごらんください。

ピックアップ

  • 講師は長谷川博美氏。速水大隅守居城に関して。
参加費200円 
主催者 NPO法人 自然と歴史ロマンの会
 
 
 

ブロガー情報発信【沖島周辺を訪ねて~近江八幡市~】 INDEX

2013年09月13日 | INDEX

滋賀県近江八幡市沖島町に属する。約350人が居住する有人島で、島の南西部に集落が形成されている。市立小学校や郵便局なども設置されている。淡水湖に浮かぶ島に人が住んでいるという例は日本では唯一。

観光案内などでは世界的に見ても珍しいとされることがあるが、実際には世界各地に湖上の有人島は数多くある。島では自家用車並みに、一軒に一隻以上の船が所有されている。

戦国時代には琵琶湖水運の重要拠点としてここに関所が設置されていた。ここを通過する船は陸上の関所と同様に関銭を徴収される代わりに沖島の住民によって航行の安全が保証されていた。この島の関所は当初は六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系の自治都市堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が特に許され、豊臣政権下の天正13年(1585年)頃まで存在していた。

2013年6月離島指定基準の見直しにより国土交通省の諮問会議により離島地域に加えられることが決定した。

・堀切港と通船おきしま

 

http://www.youtube.com/watch?v=zYRUi0PABAg

http://www.omi8.com/access/okisimahunezikoku.htm

・沖島歴史年表

・おきしま資料館

古い民家を改築してつくられた「おきしま資料館」。開館はわりと新しく2005年。                                                       漁具や島民の生活用具などが展示されているらしいが、月曜日は休館。入館料:200円。

沖島の歴史

万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。
 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。以後も、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けました。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

    

・奥津島神社

和銅5年(712年)に勅命を蒙った藤原不比(藤原鎌足の次男)等によって創祀されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された名神大社とされる。奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。

  

奥の院へ

・沖島 城跡

 本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じた。

・石切り場

江戸時代から昭和40年代まで、沖島は採石場として栄えました。

石英班岩と呼ばれる良質の石は、明治時代の琵琶湖疎水、南郷洗堰、国鉄東海道線などの工事に使われたのだそうです。

 

・西福寺

7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。

寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号(とらふのみょうごう)と正信偈(しょうしんげ)が残されています。

 虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

        

・伊崎寺

伊崎寺概要: 伊崎寺の創建は不詳ですが奈良時代、役小角が開基したのが始まりと伝えられています。貞観年間(859~77)、相応(比叡山回峰行の創始者)が再興し比叡山延暦寺の末寺となりました。古くから修行道場として知られ、荒行の1つで琵琶湖に面する断崖絶壁の上に建立された竿飛び堂から突き出した棹の先端から琵琶湖に飛び込む「竿飛び行事」が引き継がれています。

 

・昼食 あじさい村(味彩村)

住所:滋賀県近江八幡市大中町405−2

・長命寺

御詠歌:八千年(やちとせ)や柳に長き命寺(いのちでら)運ぶ歩みのかざしなるらん

琵琶湖畔にそびえる長命寺山の山腹に位置し、麓から本堂に至る800段余の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から船で長命寺に参詣した。

伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。                                            このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。                                                                                      その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。                                                                                    太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。

実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師宿禰助正解文」(おくしましょうじ はじのすくねすけまさ げぶみ)という文書である。

長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている。                                                                                  それによると、中世の長命寺は比叡山(延暦寺)西塔の別院としての地位を保ち、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えていた。しかし、永正13年(1516年)、佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍は全焼。

現存する堂宇は室町時代から近世初期にかけて再建されたものである。

秘宝曼荼羅

近江八幡市長命寺町の穀屋寺の倉庫から、「長命寺参詣曼荼羅(まんだら)」三点、「熊野観心十界曼荼羅」二点、「古文書」千点が、このほど発見された。
 穀屋寺は、長命寺の米穀出納のほか、災害や兵火によって失った寺の再建・修復のために各地を巡って浄財を集める勧進(かんじん)を担当した寺で、越前国織田(現・福井県越前町織田)出身の春庭慈芳尼(しゅんていじほうに 一四九二―一五四七)を中心とする勧進聖(ひじり)集団による勧進活動の拠点となっていたと思われる。長命寺は、永正十三(一五一六)年に兵火で本堂など主な堂舎が焼失している

 「長命寺参詣曼荼羅」はこれまで長命寺と個人所有の二点が知られていたが、今回、同一場所(木箱)から同時に三点が発見されたのは画期的。

 また、「熊野観心十界曼荼羅」二点といっしょに、同じ木箱に五点とも折り畳んだ状態で納められていた点で通例掛け軸などに仕立て直されて発見されるのがほとんどであるのに比べても珍しく、使用状態を物語るものとしても意義は大きい。さらに、七点もの曼荼羅が一つの寺で見つかるのも全国的に珍しい。
 「長命寺参詣曼荼羅」には長命寺の本堂や三仏堂、三重塔の建物や参詣者のにぎわいなどが克明に描かれており、勧進聖などが絵解きをしながら寄付を募った。

・大中湖と西の湖

 

琵琶湖の東岸に位置し、かつて40数か所あった琵琶湖の内湖の中で最大の面積を有した。行政区画としては、近江八幡市、神崎郡能登川町(現東近江市)、蒲生郡安土町(現近江八幡市)におおむね均等に三分割されていた。戦後に干拓されて農地となった。

 

大中湖は琵琶湖中央部の東岸に位置し、沖合約2kmには琵琶湖最大の島である沖島が浮かんでいる。大中湖と琵琶湖は砂州で区切られており、湖面標高84mの琵琶湖に対して大中湖の湖面標高は81mだった。直径4kmのほぼ円形であり、隣接して小中湖(伊庭内湖、安土内湖、西ノ湖の総称)があった。湖底は平坦で浅く、水深は最大でも2.7mしかなかった。面積は15.4km2である。周囲一帯は内陸性気候であり、冬期には他の湖東地域よりも積雪が多い。米原市から近江八幡市にかけての湖東地域にはかつて内湖が点在しており、大中湖以外の主要な内湖を以下に挙げる。湖東地域と湖北地域の総干拓面積は2521.3ヘクタールであり、琵琶湖の面積の3.7%である。戦後には特に琵琶湖南湖において、リゾート施設や公共施設建設のための湖岸埋め立てが行なわれたが、これらの総湖岸埋め立て面積は336ヘクタールに過ぎない。

 

 

滋賀県安土町から近江八幡市に跨る内湖。
近江八幡から安土にかけての広大な農地の中にある。
流入する河川はほぼ南から、流出する河川は放水路の長命寺川が主。
かつては近接して安土内湖等があったが、現在は西の湖を残し干拓されている。
往時の安土水郷の情景は西端の園地に色濃く残っていて、水郷めぐり観光が人気。湖岸には広大なヨシ原が残り、今も葭細工に重宝される。

・タイムスコープVR安土城再現

タイムスコープVR安土・・・youtube(要准)

安土城があった時代の風景を楽しむアプリ 近江八幡市がiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開

2013年4月8日、近江八幡市はiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開しました。

このアプリは、安土城が存在した風景をiPhoneあるいはiPadを通じて眺めることができるもので、安土城大手門前で利用すると、かつてその場所から見えた当時の城郭がフルCGパノラマで再現されるとのことです。

 

・劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

NHKの人気TVシリーズが豪華キャストを迎え、待望の映画化!!

未来の通信社の記者=時空ジャーナリストが、タイムワープ技術を使い、教科書に載らない名もなき人々に密着し、歴史の真実をドキュメンタリータッチの取材映像であぶり出していく――。その独自のコンセプトが話題のNHK「タイムスクープハンター」が、遂に映画化!
劇場版の舞台は、織田信長が天下統一の拠点とするも、謎の焼失を遂げた“安土城”。
臨場感溢れる映像で、未だ解明されない歴史の謎に迫っていく。
出演は、テレビシリーズから引き続きとなる要潤、杏に加え、夏帆、時任三郎ら豪華キャストが顔を揃えた。スケールアップした「タイムスクープハンター」で、戦国乱世の最前線を体感せよ!

 

おまけ!

youtube琵琶湖に浮かぶ暮らしがある島 沖島 http://www.youtube.com/watch?v=EfzQwMm4AQI

 

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!

 


・沖島歴史年表

2013年09月11日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

○歴史年表

時代 西暦 主な出来事
奈良時代 713 藤原不比等が沖島に奥津島神社を建立
奈良末期 恵美乃押勝が反逆の罪に追われ、一族をつれ沖島に流される
「淡海の海 奥津島山奥まりて わが思う妹のこと繁けん」  万葉集 柿本人麻呂
平安時代 1159 保元・平治の乱で敗れた源満ち仲の落ち武者七人が沖島に漂着して住みついた『落人伝説』
堅田漁民の師範のもとに、漁業を、沖合から対岸にかけて拡張し、漁具・漁船の改善をはかった
室町時代 1336 沖島は南朝新田氏の再起の根拠地となった
1443 八代将軍足利義政は、沖島に番所を設け、湖上航通の取締を命じ、今参の局を沖島にかくまった
1467 応仁の乱に破れた堅田漁民が沖島に逃れ、復帰をはかった
1535 佐々木六角氏やその家臣池田大和守の御使や中間がしばしば沖島に出向いている。
塩・材木・兵糧米・軍事用の物品の搬送にも動員され沖島の船・船頭がこれにあたっていた
1566 浅井長政が沖島惣に宛てた書状の中で、船舶の通航を保障するとともに矢銭(軍事課銭)を
免除することを通達している
1569 沖島は六角氏の軍事編成の中で船舶般送部門を担当された
1570 織田信長は浅井氏攻略戦のさい沖島惣中のもつ足の早い船三艘を動員された
1573 安土城造営当時より、沖島・奥嶋の一帯は軍事調練の場として活用されていた
織田信長が小谷城を攻撃するとき、沖島に居住する武士(漁師)に小谷城の裏山からの攻撃を命じた
信長より申出通りの褒美(漁業権)を永久に頂戴して帰郷した
1574 信長より漁業権を認定した上で警固も義務づけられていた
1579 沖島は特権と商業的利潤を得ていることにより御礼米という形で安土へ進上することを指示
1580 信長は沖島大地曳編漁獲魚献上を受けその礼状をおくっている
1590 豊臣秀吉は大津の浜で大地曳網の天覧を沖島・堅田の漁師に命じた
1592 秀吉は朝鮮出兵に際して琵琶湖周辺から水軍を徴発、沖島からも従軍者を出している
江戸時代 1600 沖島は家康の側についた。家康は関ヶ原の戦いの戦勝の祝いに沖島の住民から白米を受け取る
1734 享保十九年、寒側辰清はその著近江興地志に「漁人多く住み その島の石をとってこれを売る
おのが居を亡すものなりというべし」と書いてみる
1773 堅田西乃切と沖島の間に漁場をめぐる論争が起こった
1782 堅田小番城の釣り漁師が沖島の漁場で釣漁を許可してくれるよう願い出る
1805 田畑の開墾が必要となり、対岸に求めている
1822 堅田の釣り漁師が沖島の網場を荒らす
1852 沖島の救主ともいわれた茶谷龍城氏が西福寺で生まれた
1855 対岸の宮ヶ浜の平地三町余を田畑化し年貢を貢納することを申請した
安政年間に沖島は大火災にあい、住宅再建
明治時代 1875 県知事は島民に永代湖上借区の免許状を与える
1887 島内で石材採掘がさかんに行われた
茶谷龍城氏父業を継ぎながら開業医として島民の健康に意を用いた
1889 蒲生郡島村沖島になる
1893 島村立沖島尋常小学校開校式
1896 県内大雨。史上最大の水害
1902 県が漁業法を発布
1904 南郷洗堰の建設。湖面の水位が低下する
1905 沖島尋常小学校に水産補習学校が付設
1908 沖島が専用漁業免許状を受ける
1909 沖島343番地に沖島小学校が新築される(旧校舎)
1910 漁業法が施行される
大正時代 1912 第二琵琶湖疎水完成
1914 共有山林大岩ガ鼻の石切場権利の譲渡を受ける
石材販売組合が組織された
1921 沖島防波堤改修工事
1923 石材価格が最高になる
昭和時代 1928 沖島電灯会社設立。沖島に初めて電灯がついた
アメリカ産の川マスが琵琶湖に放流される
1929 琵琶湖産コアユを東京へ空輸
1932 栗谷に新港が建設された
1935 第一回琵琶湖対策会議
1938 沖島郵便取扱所開設
1940 沖島郵便局と改称  沖島尋常小学校と改称
1945 失火によって沖島発電所が全焼
1947 関西配電により水中ケーブルで送電が開始された
沖島中学校を併設。島村立沖島小学校と改称
1949 漁業法改正 第一種共同漁業の免許を得た
1951 島村を廃し、蒲生郡八幡町に編入
専業漁場を返還し、共同漁業権が免許された
1953 沖島港が第一種漁港に指定された
1955 153世帯 808人
1960 PCB被害(魚・シジミ)
1961 新洗堰完成
1964 琵琶湖大橋開通
1965 152世帯 747人
1968 琵琶湖水質汚濁防止連絡会議。琵琶湖総合開発第一次
1970 この頃から木造船からプラスチックが使用されるようになる
1971 琵琶湖のゴミ総ざらえ運動
1972 琵琶湖を美しくする運動発足
1973 新漁港着工 淡水赤潮発生
1974 琵琶湖総合開発により近代的な漁港が造成される
1977 赤潮発生。アユ一万匹死ぬ。合成洗剤追放運動
1979 琵琶湖条例ができる
1981 新漁港完成。赤潮発生8カ所
1982 沖島に浄化センターが完成
平成時代  1994 異常渇水。マイナス123センチ(9月15日)
1995 栗谷に沖島小学校の新校舎が完成。竣工式が行われる
2008 沖島保育所休所 小学校内に沖島幼稚園開園、柔軟な通学区域の制度が始まり、八幡小学校区から1名転入
3月末、通学船「わかば」廃船

・伊崎寺

2013年09月11日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

伊崎寺概要: 伊崎寺の創建は不詳ですが奈良時代、役小角が開基したのが始まりと伝えられています。貞観年間(859~77)、相応(比叡山回峰行の創始者)が再興し比叡山延暦寺の末寺となりました。古くから修行道場として知られ、荒行の1つで琵琶湖に面する断崖絶壁の上に建立された竿飛び堂から突き出した棹の先端から琵琶湖に飛び込む「竿飛び行事」が引き継がれています。

H二四年ポスター

http://www.pref.shiga.lg.jp/edu/sogo/kakuka/ma07/treasure_of_water/files/21wot-3.pdf#search='%E6%AD%B4%E5%8F%B2+%E4%BC%8A%E5%B4%8E%E5%AF%BA'


琵琶湖
大陸から若狭に上がり山一つ越えて湖北から船を出せば、湖南までは一直線の歴史的、物資的の回廊であった。

『伊崎の竿飛び』は、琵琶湖に突き出た小さな半島の先端に建つ伊崎寺で行なわれる恒例の行事(8月1日)。
伊崎寺は、貞観年間(859~877年)開基と伝わる比叡山延暦寺の末寺で、修行道場でもあった。
長さ13mの太い角材が、水平に琵琶湖に突き出され、これが俗に竿と呼ばれるもの。
褌(ふんどし)や水着姿の若者がこの竿の先から琵琶湖へと豪快にダイビング、
または、竿先につけた鉄の環に足をかけてぶら下がった状態から、7m下の湖面に飛び降りる。
竿とび行事は、今から約1100年前にこの寺で修行中の建立大師が、寺の眼下に広がる琵琶湖に空鉢を投げて、
湖上を行きかう漁民たちに喜捨(きしゃ)を乞い、そのあと自ら湖中に飛びこんで空鉢を拾いあげた、という故事にもとづくもの。
かつては天台僧や信者の修行の一つで、眼下に湖水という高所のため、震えが竿に伝わり、竿の先端にたどりつけずに落ちる者が多くいたという。
今は、事故防止のため、飛込みには一般の人は参加不可()。

近江八幡市・伊崎寺 

 

 

 


・西福寺

2013年09月11日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

蓮如上人の像(西福寺)

 7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。

寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号(とらふのみょうごう)と正信偈(しょうしんげ)が残されています。

虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

掛嶌山 西福寺
―蓮如上人御旧跡―
近江八幡市沖島町252
TEL 0748-33-9522

<西福寺の歴史>
西福寺は、本願寺第八代御門主蓮如上人に帰依した源氏の落武者の末裔、茶谷・重右衛門が、得度を許され釈西了(約540年前)の法名を頂き島の北東に位置する掛嶌に庵を建てたのが始めでその後、天保13年(1843年)に現在地に寺基を定め堂を建立され現在に至っている。

◆西福寺に現存する宝物
○文明の始め、蓮如上人が、越前吉崎御望から、堅田の本福寺へ向かわれる折り、南風に見舞われやむなく沖島の掛嶌に難を逃れる。
○その時、茶谷・重右衛門という漁師の女房を再度されんがために、新筵のうえで染筆された御名号
  ※南無阿弥陀仏で、特に幽霊再度の虎斑の御名号という。
○お別れの御形見の品として蓮如上人より頂いた正信偈四区の御文 
  ※能発一念喜愛心 不断煩悩涅槃 凡聖逆傍再廻入 如衆水入海一味
○幽霊が極楽より持ち来たと伝えられる表装の絹布
  ※銀金地織
西福寺の宝物として現在もお名号堂に安置されている。

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◆西福寺には、道場から寺院への移行を示す証拠が残っている。
☆道場の本尊は、「虎斑の名号」と称し実如上人の頃、阿弥陀如来が安置され寺院としての形態が始まる。
☆当時の絵像本尊は、実如上人より授けられ裏書には、「江州西福寺奥島北道場物也」とあり、後に御木像安置により真宗寺院となった。

 


・大中湖と西の湖

2013年09月10日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

大中湖(だいなかのこ、だいなかこ)は、かつて滋賀県湖東地域に存在した湖。大中ノ湖大中之湖大中の湖とも表記される。

琵琶湖の東岸に位置し、かつて40数か所あった琵琶湖の内湖の中で最大の面積を有した。行政区画としては、近江八幡市、神崎郡能登川町(現東近江市)、蒲生郡安土町(現近江八幡市)におおむね均等に三分割されていた。戦後に干拓されて農地となった。

大中湖は琵琶湖中央部の東岸に位置し、沖合約2kmには琵琶湖最大の島である沖島が浮かんでいる。大中湖と琵琶湖は砂州で区切られており、湖面標高84mの琵琶湖に対して大中湖の湖面標高は81mだった。直径4kmのほぼ円形であり、隣接して小中湖(伊庭内湖、安土内湖、西ノ湖の総称)があった。湖底は平坦で浅く、水深は最大でも2.7mしかなかった。面積は15.4km2であり、同様に干拓された巨椋池(京都府南部)の約2倍だった。周囲一帯は内陸性気候であり、冬期には他の湖東地域よりも積雪が多い。米原市から近江八幡市にかけての湖東地域にはかつて内湖が点在しており、大中湖以外の主要な内湖を以下に挙げる。湖東地域と湖北地域の総干拓面積は2521.3ヘクタールであり、琵琶湖の面積の3.7%である。戦後には特に琵琶湖南湖において、リゾート施設や公共施設建設のための湖岸埋め立てが行なわれたが、これらの総湖岸埋め立て面積は336ヘクタールに過ぎない。

八幡山城(遠景)

右・・・北ノ庄城址、手前・・・円山(まるやま)城址――遠景

西の湖・・・遠景に三上山が!

西の湖は安土山の西にあることからきています。面積は2.8キロ ㎡、水深は1.5mの浅い湖です。
この一帯は干拓地で、昭和17年までは安土山から北はびわ湖につながっていました。
その周辺のヨシ群落は近畿地方では最大級であり、周囲は水郷は張り巡らされ、「安土八幡の水郷」として琵琶湖八景の一つとして有名です。
ヨシ原を主体とする湿地には動植物が多く確認され、2008年10月30日にはびわ湖のラムサール条約湿地登録エリア(1993年6月10日)が拡大され西の湖が追加登録されました。
ヨシ群落は魚や、渡り鳥ヨシキリの繁殖場所でもあり、晩秋から冬にかけては水鳥がやってきます。2006年には西の湖一帯は鳥獣保護区に指定されました。

西の湖絵図

 

 

 

 

 

 

 

 

 滋賀県旧安土町から近江八幡市に跨る内湖。近江八幡から安土にかけての広大な農地の中にある。
流入する河川はほぼ南から、流出する河川は放水路の長命寺川が主。かつては近接して安土内湖等があったが、現在は西の湖を残し干拓されている。
往時の安土水郷の情景は西端の園地に色濃く残っていて、水郷めぐり観光が人気。湖岸には広大なヨシ原が残り、今も葭細工に重宝される。

歴史

近代以前

 大中湖や小中湖が干拓される以前は、周囲一帯の内湖を「中の湖」(なかのうみ、中之海とも)と称しており、現在の大中湖は特に五十丁湖(ごじっちょううみ)と呼ばれていた。1964(昭和39)年の干陸時に、南東部の砂州近くの湖底に大規模な農業集落の跡(芦刈遺跡/大中湖南遺跡)が発見され、縄文時代から鎌倉時代にかけて断続的に営まれた人々の暮らしの様子が明らかとなった。湖底東端には縄文時代の遺物、その西側には弥生時代の遺物と貝塚、さらに西側には奈良時代から鎌倉時代までの遺物が検出されている。

 弥生時代中期初頭の水田跡は日本最古の稲作遺構のひとつとされる。水田跡、用水路跡などを含む12万平方メートルの区域は、初期農耕集落の構成がうかがえることから1973年(昭和48年)に「大中の湖南遺跡」の名称で国の史跡に指定された。

  平安時代末期もしくは鎌倉時代に水没し、現代に至るまで水の底にあった。浅い水深のために琵琶湖独自の魞(えり)と呼ばれる漁法が発達し、畳表や灯心の材料となる藺(い、イグサ科の植物)が栽培された。近世には新田開発が盛んになり、江戸時代後期には小中湖周縁部の干拓が行なわれた。

戦後の干拓事業

  長命寺山系(西側)、琵琶湖(北側)、大同川(東側)、滋賀県道526号(南側)に囲まれた地域が大中湖干拓地、国土交通省 国土画像情報(カラー空中)を基に作成

明治期以後、たびたび干拓が計画されたが、漁業補償などの問題から実現しなかった。1942(昭和17)年には隣接する小中湖の干拓が着工され、5年後の1947(昭和22)年に完成。第二次世界大戦後には食糧対策や失業者対策の一環として全国各地の浅海や湖の干拓が計画され、1952(昭和27)年に大中湖でも干拓計画が承認された。1957(昭和32)年にはすべての漁業補償問題が解決し、同年度より干拓事業が開始されると、総事業費41億円をかけて1964(昭和39)年に干陸し、1966(昭和41)年から始まった216戸の入植は翌年に完了。前述したように琵琶湖の湖面よりも標高が低いため、排水は機械排水に頼っているが、集中豪雨時の排水などに問題を抱えている。

営農展開

干拓された1300ヘクタールのうち、集落や道路などを除く1023ヘクタールが農地として使用されている。大中湖干拓の主目的は他の干拓地とは異なり、食糧対策や失業者対策ではなく専業農家の育成にあった

。農業近代化モデル地域という意味合いがあり、入植当初から近代的な稲作の技術指導や大型機械の導入、カントリーエレベーターの建設などが行われた[。他県出身者21戸を含む216戸の入植者には農地4.0ヘクタールと宅地0.1ヘクタールが与えられ、北端・西端・南端の3集落に振り分けられた。1960年代はほぼすべての入植者が稲作経営を行い、肥沃な土壌で水稲の豊作が続いた。1970年に本格的な米の生産調整が開始されると、肉用牛の肥育やスイカの生産が導入され、スイカは「大中スイカ」という銘柄でブランド化されたが、収益性の低さから生産面積は減少していき、現在では個人的な生産がみられるのみである。

肉牛は「近江大中牛」としてブランド化され、いわゆる近江牛とは異なる流通がなされている。1970年代末にはストレリチアなどの花卉栽培や、キャベツなどの露地野菜栽培も導入され、水稲の作付面積は減少していった。

旧伊庭内湖との境界付近に滋賀県立農業大学校が立地している。

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・ウィキペディア 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・奥津島神社

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

中世に奥津島神社の頭山に「沖島頭山城」が、石垣も残っている。

 万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。

 

「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、

奥津島神社からさらに上お社が!

 更に上には、「沖島頭山城」が、石垣も残っている。

和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。

 奥津島神社の下に「沖島郵便局」が!

 

 


・沖島 城跡

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

沖島坊谷城

CIMG0091.JPG城跡の石垣!。(近世前は畑を作っていた、郭跡で)

水泳場から、湖岸を

CIMG0150.JPG

CIMG0151.JPG弁天神社(近年、道を整備して歩いてお参り行けるようにしたそうです)まで。

 本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じた。

 

今参り局

 室町幕府8代将軍:足利義政の側室が「今参りの局」である。正室である日野富子は男児を出産しましたがわずか20日足らずで死亡したため、今参りの局一族が祈り殺したとの罪で、沖島へ流罪とし、数日後に京からの使者により惨殺させました。その時に助けられたとされるのが彼女の子「櫻子」である。小説「櫻子」は昭和34年に大仏次郎によって執筆され新聞連載されました。


・おきしま資料館

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

蓮如上人御旧跡・・・石碑

虎斑の名号/正信偈

 茶谷重右衛門の妻が産後間もなく死亡したことで、子供いとおしさに幽霊となって現れるようになった。茶谷重右衛門(法名:釈西了)がこのことを不憫に思い、氏神に祈ったところ、夢の中で、「明日蓮如上人が来られるので、お願いするように」とのお告げがあり、翌日偶然にも越前吉崎御坊から堅田本福寺に向かう途中に遭難し、沖島に立ち寄った蓮如上人にお告げのことを話したところ、上人は幽霊を教化するため六字の名号(南無阿弥陀仏)を与えられた。これらはムシロの上で書かれたため、南無阿弥陀仏の字が虎斑のような濃淡が出ているので、俗に「虎斑の名号」と呼ばれています。正信偈(四句の御文)は蓮如上人が島を去る際にお別れの形見として残されたものです。

 

おきしま資料館

徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

織田信長が沖島に向けて出した書状。

戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。

徳川家康文書

関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。

 文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、秀吉文書(管浦観音寺文書)、

赤崎神社の沖から、しじみに混じって「縄文土器や和同開珎」が発見されました

2階へ

沖島の歴史

万葉集などにも沖島に関する詩が見受けられる事や大正期に赤碕沖付近で漁を行っていた船からシジミに混ざって縄文土器や和同開珎が発見された事があるなど、かなり以前から沖島付近に人々の往来はあったと思われます。
 和銅年間に近江の国守であった「藤原不比等」(藤原鎌足の子)が奥津島神社を建立し、奈良時代には、称徳天皇への反逆の罪で追われた恵美押勝(藤原仲麻呂)が一族らと共に沖島に一時期住んだと伝えられています。しかし、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156~1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
 琵琶湖に浮かぶ沖島は戦略的にも重要な位置にあり、この事は数々の歴史書に見受けられます。
 南北朝時代には戦いに敗れた南朝軍の一部が越前―新田義貞との連絡網を確保し食料と軍備を建て直すために頭山一帯に城を構えたとされ(蒲生郡史)、室町時代には、当時勢力を伸ばしつつあった堅田(大津市)の湖賊が比叡山延暦寺の攻撃によって町が焼き払われたため、約2年間に沖島に避難生活をしたとの記録があります(堅田本福寺・明誓跡書)。
 また、8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされ、戦国時代には、織田信長が浅井長政に対して行った「手筒山の戦い」や「小谷城攻め」の際に、島民に船を差し出すよう命を出し、これらの一戦で活躍したことにより、信長から感謝状と琵琶湖一里四方を禁漁区とする特権を付与されています。文禄の役(1592)でも朝鮮出兵に従軍し、(管浦観音寺文書)、関ヶ原合戦後の徳川家康による石田三成への「佐和山城責め」においても水軍として活躍(沖島共有文書)しました。以後も、時の権力者から、航路の警備、輸送等の重要な任務を務める見返りとして、漁業権の特権は認められ続けました。
 徳川時代にも慣用専用漁場として認められ、堅田の漁師との8年にも及ぶ論争においても京都町奉行で沖島側主張が受け入れられ、明治8年には滋賀県知事より永代借用権として認められましたが、最終的には戦後の漁業法改正により消滅しました。

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・堀切港と通船おきしま

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

堀切漁港

通船時刻表に【しらさぎ伝説】

通船桟橋・・・浮き輪の上の・は通船おきしま

堀切港~5分 500円/片道

沖島尾山

就職体験中!

 

沖島港から伊崎山

漁民の碑

http://healthytourism.seesaa.net/

ヘルスツーリズム琵琶湖沖島の会

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


・昼食 あじさい村(味彩村)

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

お問い合わせ
住所: 近江八幡市大中町405−2http://yahoo.jp/jFvcGe
TEL: 0748-32-2284
地域: 滋賀県 > 近江八幡市

業種:ドライブイン・道の駅

近くに、沖島(山善水産)

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・タイムスコープVR安土城再現

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

タイムスコープVR安土・・・youtube(要准)

http://www.youtube.com/watch?v=VDhO3HI4e88

安土城があった時代の風景を楽しむアプリ 近江八幡市がiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開

2013年4月8日、近江八幡市はiOS用アプリ「VR安土城タイムスコープ」を無料公開しました。

このアプリは、安土城が存在した風景をiPhoneあるいはiPadを通じて眺めることができるもので、安土城大手門前で利用すると、かつてその場所から見えた当時の城郭がフルCGパノラマで再現されるとのことです。

http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/1196ea9b2d119f73c42eee0a071cc5a9

VR安土城(iTunes)
https://itunes.apple.com/us/app/vr-an-tu-cheng/id626839608

VR安土城タイムスコープの無料アプリリリースの完了について (近江八幡市 2013/4/8付けの記事)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/contents_detail.php?co=new&frmId=7070

広報おうみはちまん2013年4月号 (PDF) (15ページにアプリの紹介があります)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/cmsfiles/contents/0000007/7036/13-04-01-all.pdf

バーチャルリアリティー安土城プロジェクトについて (近江八幡市)
http://www.city.omihachiman.shiga.jp/contents_detail.php?frmId=5743

 

 



参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

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・劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

2013年09月09日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

原題:劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日

劇場版タイムスクープハンター 安土城 最後の1日NHKの人気TVシリーズが豪華キャストを迎え、待望の映画化!!

未来の通信社の記者=時空ジャーナリストが、タイムワープ技術を使い、教科書に載らない名もなき人々に密着し、歴史の真実をドキュメンタリータッチの取材映像であぶり出していく――。その独自のコンセプトが話題のNHK「タイムスクープハンター」が、遂に映画化!
劇場版の舞台は、織田信長が天下統一の拠点とするも、謎の焼失を遂げた“安土城”。
臨場感溢れる映像で、未だ解明されない歴史の謎に迫っていく。
出演は、テレビシリーズから引き続きとなる要潤、杏に加え、夏帆、時任三郎ら豪華キャストが顔を揃えた。スケールアップした「タイムスクープハンター」で、戦国乱世の最前線を体感せよ!

8月31日 新宿ピカデリー他全国ロードショー

 

タイム スクープハンターhttp://www.youtube.com/watch?v=gZLP3CokRww

 

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!