『レモン哀歌 』 高村 光太郎
そんなにもあなたは
レモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に插した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
君が
吾に
託した
ちいさな
惑星は
ズシリと
重く
フワリと
薫りけり
未来の眩しさの
やうな
生命の重みの
やうな
有り難くも
時として
放り出したく
なるやうな
でも
吾らは
知っている
檸檬なんて
たいそう
難しげな
表現こそ
すれど
そこに
充ち満ちているのは
ただ無数の
経験の粒たち
ぎゅうぎゅう
ひしめき合えば
合うほど
薫り高く
みずみずしく
チカラとなって
迸る
智恵子が
遺した
トパアズいろの
ラブレター
それは
残されし
光太郎への
応援歌
とも
愛するコトは
願うコトに
どこかしら
似ていて
吾たちは
誰かが
想うほど
強くは
ないけれど
自分で
思うほど
きっと
弱くは
ない