自然の宝庫 今こそ必要 雑木林を育て続ける稲作農家 本田 弘さん(65)
福岡県出身。北大農学部卒業後、妻の実家を 継いで26歳で農業に従事、自家精米したコメや 野菜を直売する。農文協の講師も勤める。
体のしんが凍えてくるような寒中の雑木林。 直径三十㌢ほどに育ったミズナラやカツラの枝の張り具合をじっと 見つめる。稲作農家は普通、1月から3月は農閑期。だが、本田弘 さん(65)は「山は冬場がとても大事な時期なんです」と、休みなく 山中を歩き回る。胆振管内厚真町上野で22㌶の水田を耕す。自宅 周囲の約30㌶の山林は広葉樹自然林とカラマツ植林が半々くらい。 沢や湿地、沼が点在する。四季を通じてさまざまな生命が集まり、 水や環境、生活文化をはぐくむ身近な林は、本州では里山として親 しまれてきた農村の原風景である。1988年に農文協の季刊誌で ある「農村文化運動」に「雑木林のある暮らし」を書き、山林付きの 農業の魅力、豊かさを紹介。里山保存の先駆けとして各地で山作業 を講演、里山の再生と継承を訴えた。最近は、裏山を学校や都会の 人に開放する里山学校にも取り組んでいる。「春先は山菜、秋はキ ノコが手に入る。ヤマザクラが咲き、夏は緑陰、秋はモミジの紅葉。 ただ歩くだけでも楽しみは尽きない」と語る。冬は間伐をして炭を焼 き、小さい木はシイタケ、ナメコなどのほだ木にする。昔は普通にあ った農村の生活を今日に生かす。
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「かっては多くの農家が里山を持っていた。木材のほか山菜やたきぎ など生活の山だった」が、70年から列島改造ブ-ム、苫東開発を当 て込んだ買い占めで虫食いにされた。バブル経済期のゴルフ場開発 で買いあさられ、厚真でも山林を守りながら農業を続けているのは本 田さんぐらいになってしまった。90年代に旧興銀系の開発会社が隣 接地を含む山林を買い占めたが、バブル崩壊でゴルフ場が建設でき ずに放置。数年前に整理回収機構の中坊社長が農家に返したいと 格安で農民に売り戻した。「それも、転売などされ、結局山はよみがえ らなかった」と悔やむ。「山を歩き木を育てることで労働の楽しさを学ん だ。農家が手間のかかる山仕事に目を背け、目先の合理化、効率化 のみを追求しても、現実には安い輸入農作物に追い詰められるだけで はないのか」と、農政と農家への批判は厳しい。山を見ていると頭の 中に百年後の美林が浮かんでくる。「雑木」と呼ぶ広葉樹をまぜた育 林方法に沿って、樹齢30年の木も間伐していく。「『百年木』と呼ぶん ですよ。理想的な山を造るためには木と木の間を広くとる。農業を継い だ40年前に植えた木が育ち、10年したら水田にくみ上げていた沼の 水が豊かになった」と確信を込めて語る。
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裏山に二千人以上が訪れた。「里山は博物館、美術館であり音楽 ホ-ルです。多くの人に森と農業に触れてほしい」と熱を込める。仕 事を手伝うボランティアが近く本田農場のホ-ムペ-ジを立ち上げ 全国に発信していく運びだ。「山で遊び、学ぶことで、多くの人が私の コメを食べてもらえる縁になった。農業と環境について知り、農家の応 援団になってもらいたい」老境を迎え、里山の行く末に思いをめぐらす。 農業経営こそ基本と考え株式会社にする考えだ。意欲と資格がある 人が引き継げるよう足元を固めたいという。同世代は年金生活に入っ た。「山で同窓会を開くんだが、みんな私の生活をうらやましがる。年 金をもらって体が動くなら里山をよみがえらせるボランティアを薦めま す。山を歩いていると時間がぜいたくに過ぎてゆく。十年後、二十年 後に頭に描いた美しい森が育つ。それを見届けたらここに骨をまいて もらいたいと思ってるんです」と笑う。
あとがき=役所や系統団体で農業を取材して半収と価格だけがテ- マと考えていた。だが本田さんら魅力的な農家は、農作業や山仕事の 楽しさを語り実践している農的生活の達人だ。少子高齢化を迎え、農 村と農業のあり方を考えるとき、こうした価値を正しく評価することも重 要ではないかと思う。
文・編集委員 本村龍生 写真・写真部 西村昌晃