クレ-ムの利益と不利益(うちだ・たづる=神戸女学院大教授)
「モンスタ-親」という見慣れない言葉をメディアで見かけた。無理 難題というほかはない苦情や抗議を執拗に繰り返す保護者や住民 のことだそうである。「仲のいい子と必ず同じ学級にしろ」「うちの子 の写真の位置がおかしい」「チャイムがやかましい。慰謝料を出せ」 「子供のけんかの責任を取れ」・・・。担任交代要求まであるという。 教育の現場に身を置いていると「クレ-マ-親」たちの理不尽ぶりに 驚かされることが多いのは事実である。「はしか」が流行したときに 休校措置をとった大学で、受けられなかった教育サ-ビスを大学は どう補填をするつもりかという怒りの電話をしてきた親がいた。
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感染の危険があるのに予防措置を怠ったというのであれば大学が 管理責任を問われるのは当然のことだが、予防措置にともなう「受 益者の不便」について補償を求められては学校も立つ瀬があるまい。 感染を回避できたという「利益」と受講機会を逃したという「不利益」は トレ-ドオフされると私は考えるが、そういうふうには計算してくれない ようである。だが、自己利益の確保をあまり急ぐと、むしろより大きな 不利益を呼び込む場合があることを忘れてはいけないと思う。学校の 管理責任や教師の教育力不足をきびしく批判する親たちの指摘には 根拠があることを私は認める。だが、その批判が学校を子供にとって 快適な場所にし、教師の能力向上に資するか、その逆の効果をもた らすかは熟慮すべきであろう。医療事故も同様である。医療事故をき びしく告発することによって医療の質が向上すれば患者は利益を得 る。だが、訴訟を嫌う医師たちがトラブルの多い診療科勤務を避けれ ば、患者たちは受診機会失うという不利益をこうむることになる。事故 利益追求のために人々があまりに要求をつり上げ、他者に対して過 度に不寛容になると、社会システムが機能不全に陥ることがある。 クレ-ムによって確保される利益と不寛容がもたらす不利益のどちら がより大であるかについては、慎重な吟味が必要だろう。
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これまでメディアは何か事件が起るたびに「責任者出て来い」と怒号 する「被害者」にほぼ無条件に同調してきた。クレ-マ-の増加はメ ディアのこの安易な「正義主義」と無関係ではない。こけまで教師を 叩いてきた人々が今度は手のひらを返すように「モンスタ-親」を加 害者として告発する。だが、大切なのは被害者、加害者の白黒をつ けることではない。自分のしようとしている社会的行動のもたらす利益 と不利益を冷静に考慮する習慣を市民一人一人が身につけることであ る。「100%の正義」が「100%の不正」を告発するという単純な図式 こそが、私たちの社会システムの円滑な機能を妨げているという事実 に私たちはそろそろ気づくべきだろう。私は「モンスタ-親」などという ものは存在しないと思う(「モンスタ-教師」や「モンスタ-医師」が存 在しないのと同じように)。いるのは「いささか常識を欠いた方」たちだ けである。被害者と加害者、正義と不正の単純な対立図式であらゆる 社会問題を扱う態度こそ「いささか常識を欠いてはいないか」と私は危 ぶむのである。