鉄の街の希望 挫折ばねに活路探る
東京・本郷の東大キャンバス。社会科学研究 所教授の玄田有史(43)は、書類の山から一冊 の報告書を取り出した。表紙に「釜石に希望は あるか」とあった。釜石は、あの新日鉄の城下町。 堅苦しい研究に不釣合いな「希望」の文字は、玄 田らが唱える「希望学」の調査であることを示して いる。報告書には、昨春のシンポジュウムでのや りとりが収録されていた。なぜ釜石だったのか? 玄田は言う。「製鉄所の合理化という挫折を乗り 越えようとしているから」。そこで「地域の希望」を 考えたかったという。
誇り刻む
昨年12月。JR釜石駅前広場の一角に、近代製鉄発祥150周年の 記念碑が建った。「ものづくりの灯を永遠に」。釜石鉱山の磁鉄鉱で 造った碑に、市民は鉄のまちの誇りを刻み込んだ。新日鉄釜石製鉄 所ではいま、線材の好調な生産が続く。だが、「ヘルメット姿の作業 員が闊歩した」(地元商店主)昔の熱気は町中にはない。1960年 代に約8千人を数えた製鉄所の従業員は、89年の高炉休止を経て 2百人を切った。市の人口も4万2千人と最盛期の半分以下だ。東 北新幹線の新花巻駅まで百㌔近い道のり。高速道路も通っていな い。そんなまちで、聞き取り調査を続けた玄田ら大学の研究者たちは 「困難に向き合う人々の気概」と出合うことになる。
連携が鍵
石村真一(54)が経営する石村工業の歩みは、高炉を活力源として きたまちの歴史と重なる。もとは構内設備業者。仕事はすべて新日 鉄関係だった。「信じたくなかった」という高炉休止の後、工業用機器 の製造下請けで生き残りを図ったが、中国製品との価格競争に苦し んだ。活路を開いたのは水産・林業など地場産業と連携したものづく りだつた。木くずのペレットを燃やすスト-ブは、北海道にも出荷する。 電気を使わずに効率良く燃やせるのが特長で「いいものを作って売れ ばやっていける」。10人まで減った従業員は今、正社員で20人。近く 発売するワカメ自動刈取り機も「省力化で漁業の後継者確保につな がれば」と期待をかる。市内では進出企業が14社を数え、2100人 が働く。製造業に従事する市民も増加に転じた。一方で、国際競争の 荒波に押され、撤退した企業も10社ではきかない。進出企業が採用 するのは、新卒を除けば派遣や臨時従業員などが大半で、地元には 「低賃金で使われるのなら、植民地と同じじゃないか」との不満がくす ぶり続ける。だが、火の消えた高炉が残した深い穴を埋めるのに、え り好みができるはずもない。同市産業政策課長の佐々隆裕(53)は、 首都圏で企業誘致に靴底をすり減らす。大手企業や研究所、果ては 産業廃棄物の処理業者まで。足まめな営業マンのように歩き回るの で、「公務員だと言うと驚かれる」と佐々は笑った。では、釜石に希望 はあったのか-。玄田たちは調査の中間報告で、誘致企業と地場の 連携や豊かな観光資源の活用などの課題を並べ立てた。まちを生き 返らせようと懸命になつている人たちも、まだ力を合わせ切れていな い。だが、玄田は「ある」と確信する。「挫折を経験しなければ、希望 は生まれてこないから」。苦境からはい出そうとする釜石の気概は、 一度苦難をなめたからこそ。玄田はその姿の向こうに再生への道筋を 見る。石炭、造船、漁業・・・。道内経済も基幹産業の衰退で低迷にあ えぐ。道は2008年度以降、4年間で10万人の雇用創出を目標に、 企業誘致や中小企業の育成に力を入れようとしている。 (敬称略)
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