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海上郡 橘庄 に関すること

2019-08-24 | 雑記

まず、今まで下河辺氏の後裔「野本氏」と書いてきたが、日本の苗字七千傑では「野木氏」となっていた。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020e3.htm

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%87%8E%E6%9C%AC


野本氏か野木氏、私にはわからないが、「野木氏」だったのかもしれない。
すると「野木能登守…」となる。

あの乃木大将の野木氏とも繋がるのであろうか?
つまり、佐々木氏の野木氏とも繋がるのであろうか?

そこは、これからの課題とし、
いま気になっているのは『「千葉氏」の中にも橘と名乗る者も出‥‥と本にあったこと。』




海上郡橘庄

歴博のデータベースによると
「荘園志料=「海上庄」「東庄」ともいう・角川地名=東庄=千葉常重の私領であった国衙領立花郷の後身=正和2,4,25関東下知状に「橘庄号東庄」円福寺文

【備考】千葉胤頼子孫東氏の名字の地で、保延二年に収公された祖父常重の私領「立花郷」の後身と推察・荘園志料は汎称して海上庄ともいうとするが、海上庄は別置・『東鑑』文治2乃貢未済庄々注文=橘并木内庄=二位大納言・石井新二「東庄」=二位大納言を藤原兼房(兼実弟)と推定=三崎庄とともに摂関家領で皇嘉門院領であったと推察し千田親雅との関係を想定・香取社遷宮用途注進状=100石究済

===*===

http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/06_jiten/rekisi/documents/kamakurabakuhunoseiritutokasimajinnguu.pdf

『鹿島神宮文書」には,源頼朝下文の他に,鹿島神宮領橘郷の相論をめぐる下文として元久2年の鎌倉幕府3代将軍源実朝下文が収められています。国井八郎正景(政景)は不正な方法で橘郷の地頭となり,神事用途を妨げているとして鹿島神宮権禰宜中臣政親から訴えられました。実朝は正景の地頭職を解任しました,国井氏は承伏しませんでした。』


『鎌倉幕府の初代将軍源頼朝は,古代より常陸国一宮としての権威を誇ってきた鹿島神宮を保護し東国における信仰の中心に据える政策をとりました。頼朝は同社に所領を寄進しましたが,これらの鹿島神宮領では,寄進後も地頭の非法が展開されました。

橘郷の地頭であった国井八郎政景(正景)は,神事用途を納入を妨げた責任を追及され,鹿島神宮権禰宜中臣政親から幕府へ訴えられました。国井氏は,清和源氏の流れをくみ,国井郷(水戸市)を拠点に活動しました。

国井政景は二代将軍頼家から橘郷地頭に任命されましたが,橘郷の支配権強化を図り鹿島神宮との対立を深めます。三代将軍実朝の裁決の結果,政景は地頭職を解任されましたが,国井氏は納得せず,訴訟は安貞2年まで続くことになります。』

===*===

下河辺氏=後の長谷川氏(室町以降長谷川氏・江戸時代には長谷川宣以:鬼平犯科帳のモデル)が地頭職を降ろされ、国井氏になったのかもしれない。

という事は、海上郡の中に下河辺氏もはいりこんでいたという事だ。
という事は、千葉氏と小山氏の婚姻関係があってこそ…だったのではないだろうか?

千葉胤正の娘が「播磨守」に嫁いだという系図を見た。
その頃の播磨守は小山朝政だったのだ。

===*===

小山朝政は兄弟に宇都宮頼綱がいる。宇都宮氏は中原氏と繋がっている。
鹿島神宮の付近の庄には、千葉氏の中でも宗教関係者に近い人物を抜擢したとかは、無いだろうか?

小山政光や朝政に中原氏の母親がいたのではないだろうか?
結城朝光の母親は寒河尼であるので、小山政光や朝光と中原氏との婚姻関係は可能性が十分にあると思う。

===*===

千葉氏・下河辺氏、更に誰かが橘氏と名乗れば、その人物が蓮忍の父『中原経任』であったかもしれない。
この経任は「ツネタカ」とも「ツネタダ」とも読めるようである。

常忠・・・と変換すると上総氏の方に「臼井常忠」がいる。
この臼井氏は後に原氏につながっていく。

あの寛永年中原一族…の部分は、やはり中原一族で合っていたのだろうか?
平常長の母親が中原氏であったならば、またどこかで中原氏と婚姻関係を結んだかもしれない。

上総氏と千葉氏の関係も、元は同族である。
千葉氏先祖の『平常長』も共通なので、千葉氏にも中原氏の血が入っていることとなるかもしれない。

下河辺氏と源頼政との関係も、千葉氏・上総氏との関係も、合点がいくことであり、
下河辺氏は秀郷流の中でもあり、何だか、ココのような気がしてきた。

で、橘氏を名乗り‥‥というのは、実は以下の様な説も見つけた! wikipedia

橘姓説

現在の栃木県塩谷郡塩谷町大字佐貫に存在する佐貫磨崖仏奥の院大悲窟に収められていた建保5年(1217年)2月と刻印された銅版曼荼羅に公頼の名があるが、ここに「右兵衛尉公頼」と記されているため、公頼を橘氏の出自とする説が存在する。しかし、これ以外には、公頼を橘姓とする資料は存在しない。

『勝山城 ~氏家氏 栄光の時代~』での推察によれば、奈良時代に下野国司として赴任した橘氏の子孫の中に源頼朝の御家人となった橘公長という者がいて、これが公頼である可能性があるとする。公長は弓の名人であったが、公頼も鎌倉幕府の行事などで流鏑馬や笠懸で射芸を披露し、将軍の下で流鏑馬の作法を評議する立場であるほどの弓の名人であり、共通項はある。あるいは、公頼が母方の姓を名乗った可能性もあるとする。

但し、公頼については、宇都宮氏の養子である説があるため、これに基づけば、公頼が元々橘姓のいずれかの氏族の出自である可能性もある。

===*===

どこかで宇都宮氏が一枚かんでいそうである。








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