http://urabe-roots.net/usuishi.htm
中ほどの「赤い色の系図」のすぐ下あたりに注目してみると、
『前にも述べたように、頼朝以前は千葉介だった常胤より、上總介であった広常のほうが大きい勢力であった。そして、臼井常忠や子供たちは頼朝挙兵の折にも、広常の軍勢に加わっていたと思われる。ところが1183年、広常は頼朝に謀反を疑われて抹殺される。広常の弟天羽庄司直胤・相馬九郎常清らは投獄され、領地は没収された。その後疑いは晴れ、弟たちも助命されたが、この時広常についていた常忠や子供たちにも難がふりかかったのではないか。常忠には13人ほどの息子がいたとされるが、このあたりの記録が乱れるのは、おそらく領地は没収され、一族散り散りになり、姓を変えたり、他家に預けられたりしたからではないのか。』
ここである。
もしも片岡氏が上総氏の親戚であったとし、海上氏に預けられ、その後片岡氏となり…とも考えられないだろうか。
そして臼井氏や原氏などを見ていると「平常長」の後裔でもあるが、母が中原氏であったことに始まり、尾張氏と、また、大中臣氏とも何等か関りがあり、占部氏とつながってくるのではないだろうか。
http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk001/kk1e-hirotsune.html
特に「原高春」
原高春は尾張国二宮大縣神社大宮司。母が上総広常の妹なので上総広常の軍に加わった。源頼朝の母は尾張国熱田神宮大宮司・藤原季範の娘。
源義朝の正室は頼朝の母と言われ、実家の家柄の良さが源頼朝を嫡子として扱われた理由とされている。
「上総御曹司」と呼ばれた源義朝によって上総広常の父・平常澄を配下にしていたことは既に述べた。
平常澄の娘(上総広常の妹)を尾張国二宮大縣神社大宮司・原高成に嫁がせたのは、源義朝の意向だったと考えられ大変興味深い。
…これも非常にありがたい情報であると思う。
熱田そろそろ行きたいんですけど、とてもいいヒントになりそうです。
昔は頼朝と義家って源氏の中でもビックネームですきだったんですけど、どうも違うんですよね。信仰とか仏像とかの側面でどうも伝承しているようにも思えずで、それゆえ頼朝も大変だったんだろうとは思うんで特に攻撃してもしょうがないんですけどどうしてそう思うのか?事実を知りたいんですよ。お母さんも知識はあったでしょいし、何か出来る事を出来なかったんだろうとも思います。取り巻きかなぁ?
今回の記事、弟橘媛と日本武尊の所まで遡るような何かあるんではないかな?頼朝って結構ビビリ割にピンときちゃうタイプだったのでしょうね。政子がまた逆効果のようにも。現実の事件でも男女って悪い方向に行きかねない事ありますよね、居ると安心してエスカレートしちゃうとか。頼朝亡くなってからの政子がまた大変。
古代とかの妄想の構図だとパートナーの妹違いがあるんじゃないかな?本来惹かれ合う者同士を押しのけると自分の意志は満足ですが生きにくくなるのでそんなに無理なく相棒やパートナー決めることが出来るようになるといいのになあ。
女性の違いが同母ならいいのですが異母だと無理しそうに思うんですよね。自分に合った方は必ずいるのでその方が幸せですもん。なんでこんな事思うんだかよくわからないんですけどね。
そう亡くなった元彼女に追いつこうとしても無理だし自分がもったいない。そうじゃなく自分が本当に好きな方に好かれたらその方が幸せという生き方出来るといいんですよね。この前源氏の神社に迷ったんですけど行っちゃったんでそのせいなのかな?新羅三郎で面白い事書いてあったんですよね。
父の関係だと新羅明神も関わるんですよね。
そうだ熱田から剣盗まれた事ありましたね!
妬んでも自分が余計に辛くなるなら頭柔軟に自分の役目を果たして欲しいなあ。頼朝に言ってるのかなぁ?
超わけわからないです、書いてる自分の言葉の意味が。