私にとっては、新鮮な系図が出てきた。
1959年の出版なのでただ知らなかっただけなのだが、
これが年代的には合っているのではないだろうか?と思う。
胤綱には息がいなかったために弟であった時胤を養子とし、家を継いでいる。
其の胤綱の妹が土岐判官光行の妻となっている。
更に胤綱弟千葉次郎泰胤の娘を千葉介頼胤の妻としている。
土岐七郎左衛門尉という系図は、実は『光行』のことであったようだ。
私なりの考えだが、土岐氏のはじまりであった国房が『美濃七郎』を称していた。
其の「七郎」が引き継がれてたのかもしれない。
土岐光衡の時代、源頼朝に美濃国守護職を賜わり、鎌倉幕府とは近い関係であったのだが、承久の乱で上皇方についていたために、光行は『土岐浅野判官 出羽守』となっていた。
また今回の調べで源範頼の源国長の息国江がいて、三河目代となっていたことがわかった。源国長は中原祐安の同じ時代を生きた人物で、共に従五位下となっている。
更に土岐光信の息光長は、寿永の乱で木曽義仲に組しているそうである。