【富木常忍の母親は千葉胤正の娘である】とする説をもう一度考えてみたい。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index289.html
さらに、千葉胤正の娘は「下総局」ではないかということが上記の「高橋俊隆氏の著作」にあり、私もそのことを仮説として進めてみようと思う。
実朝の乳母的存在に「下総局」がいた事は確かである。
その「下総局」と富木氏が繋がるかどうか。かなり難しいお題!と思うが、TRYしてみたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/3c/5f856f55eb17fca20fa4f0347eefbb20.jpg)
後ろから二行目に、女房‥‥介錯也。に「下総局」が見ることができる。
1275年に日蓮が富木常忍が九十歳になる母が作った夏に向けての帷(かたびら:裏地がない一重の上着)を供養されたことへの返書が残っている…という事は、1185年生まれである。
源実朝は1192年生まれである。7歳で御介錯のお役目をいただくことはあるのだろうか?
下総局の母親について出仕し、そのあたりに座っていただけかもしれないが。
介錯とは養育係だそうであるが、付き添って面倒を見るということと思われる。
下総局の母親という事は、千葉胤正の妻という事になる。
妻は不明となっている。
胤正の母は「秩父重弘の娘」である。
では、上記の文書に出ていた女性をみていこう。
大弐局(読み)だいにのつぼね(コトバンク)
?-? 鎌倉時代の女性。
加賀美遠光(とおみつ)の娘。源頼家,実朝の養育係をつとめる。建暦(けんりゃく)3年(1213)の和田氏の乱ののち出羽(でわ)由利郡(秋田県)の地頭職をあたえられた。
生年:生没年不詳
鎌倉前期の武家の女性。御家人加々美遠光の娘。文治4(1188)年から鎌倉幕府の女房として名がみえ,頼家(源頼朝と政子の長男)養育係のひとり。政子が次男実朝を生んだとき,上野局,下総局と共に介錯に当たる。その後は,生後3カ月の実朝の初の外出に供奉していることなどから,実朝の養育をもっぱら担当していたと推測される。建保1(1213)年の和田義盛の乱後,勲功の賞として羽後国(秋田県)由利郡を与えられた。(田端泰子)
もう一人の上総局は、名前のみで、後は見かけることはできなかった。
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googlebooksより胤正の母に言及している部分を抜き出した。
上關東初期武家政治の性格と実態
龍肅
春秋社, 1957
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三男胤盛と四男胤信とは馬を引き、五男胤道は弓箭を持ち
六男胤頼は剣を捧げて庭上に列座し装うて侍の上に着座し、
嫡男胤正の母を陪膳とし、
孫子小太郞胤正をもって帯の使として進献の儀を行なわせ、
頼朝は親しくその帯を結んだ。 ...
と、胤正の母も役目を持って出仕していた。
胤正の母の父=胤正の母方の祖父【秩父重弘】はどのような人物だろう。
長くなるかもしれないので、、次回へ。
memo 斉藤兼綱
モバラ