九里 【九里】を探して三千里

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原胤栄(原胤義)ー 原胤信・原勝胤 

2020-03-07 | 雑記


wikipediaの 原胤栄には、胤義勝胤いう息がいて、其の胤義の息が「胤信」となっている系図もあった。
それが正しければ、原胤信の叔父が原勝胤となる。
房総叢書にも、胤義のことが書かれていた。
年代を見ると、そうかもしれず…
胤義がいたと仮定するとどうなるのだろうか?

まず、原胤義のことからだが、各地を流浪していたという。

幼い息をどこに預けるかを探りに行っていた可能性もあると思う。本人は浪人であるので、息には将来性のある人物のもとで…と思い、情報も集めていたのではないか。その結果「家康」を選び、その小姓となったのだと思う。

原胤義の弟「原勝胤」は、別名「原長頼」と同一人物なのだろうか?
原隠岐守勝胤であったとすると、周囲に小田氏・佐久間氏・佐々氏・前田氏・福島氏…がおり、急に大和宇陀松山藩の九里政直に近い感じになる。

しかし、原隠岐守勝胤は、土岐氏の方の原氏なはずである。
同姓同名で隠岐守もおなじなのだろうか?

この原長頼(=勝胤)の父頼房が、私が探している原勝胤の父(=胤義)となるとは思えないが、明智光継の五男原光弘がいる。その兄に山岸光信(進士光信)がいる。
まず、関係がなさそうとは思うのだが、浪人が来て、主人が気に入ればその家臣となる可能性もゼロではない。



===*===

千葉氏のページhttps://chibasi.net/hara15.htm
ここでは胤義と胤栄は同一人物とみており、(胤栄も「タネヨシ」と読めるため)
『慶長5(1600)年10月1日に亡くなったという「原胤義(大賢院殿震嶽道雄大居士)」とは同一人物であろう。』ということである。

そうなると、胤栄の二男勝胤ということになり、胤信の弟という事になってくる。
とすれば、上記の土岐流の勝胤とは時代が違うことになる。

参河志に書かれているこれは「田中兵衛」の名も見え、近いような気がする。


https://books.google.co.jp/books?id=MRgnwQoKBwoC&pg=PP22&dq=%E5%8E%9F%E9%9A%A0%E5%B2%90%E5%AE%88%E5%8B%9D%E8%83%A4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwj62sjn5YfoAhWLy4sBHUzqBmAQ6AEIYDAH#v=onepage&q=%E5%8E%9F%E9%9A%A0%E5%B2%90%E5%AE%88%E5%8B%9D%E8%83%A4&f=false

===*===

最後の
田中主膳元陳
自分の記事にもう書かれていたのでご紹介!
長崎氏で合っていたようである。九州の長崎氏と田中吉政とが繋がるため、そうではないかと思う。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/2af3b346eb03750979127839f055aba5



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E7%B4%94%E6%99%AF

===*===

さらに横道にそれるが、このような記述を見つけた。

http://genryuji.jp/history.html

「原立寺開基原美濃守虎胤について

 川中島の合戦は天文二十二年~永禄七年の間に五度の合戦が行われ、原虎胤は、内三度合戦に望みました。
 元々、原虎胤の先祖は下総千葉氏の臣下名門原氏である。原虎胤の父友胤の時代には、千葉氏重臣として臼井小弓城(現千葉市)を任されていたが、一五一七年十月、足利義明が真理谷氏と共に小弓城を攻めた小弓合戦で領地を追われ、もはや千葉氏にはそれを回復する力なく、原親子は甲斐の武田信虎(信玄の父)を頼った。

 父友胤は、足軽大将として信虎に召抱えられ三千貫を領した、この時、虎胤は十七歳で信虎より三歳年下であったと考えられる。この後親子は数々の活躍があり武田家中での地位を確立した。

 父君友胤亡き後(没年不明)一五二一年十一月、飯田河原の今川勢との合戦で、武田勢は苦戦するが、原虎胤が今川氏の総大将・福島正成を討ち取り多大な功績を上げ「美濃守」を賜る。
 一五四一年武田晴信(信玄)が武田家々督を継いでからも、虎胤は豪傑として「鬼美濃」と呼ばれ活躍、武勇は諸国で恐れられた。特に城攻めに長けており、落城後は修理がいらないと言われるほど城攻めを得意とした。四十五歳(一五四一年)の時には、足軽大将と成り三千貫を領し、騎馬三十騎、従兵百人の軍勢を率い武田軍の中核を担った。
 一五五一年十月小笠原氏の一族平瀬八左衛門の平瀬城を四日間で攻略、手柄により晴信(信玄)より平瀬城主を命じられる。一五五三年十二月日蓮宗(法華宗)と浄土宗間の勢力抗争の際、法華宗の立場で法論に加担した事を咎められ「甲州法度之次第(宗派に偏る事を禁ずる)」に背いた疑惑により小田原へ追放される

 小田原・北条氏康は「渡辺の綱(源頼光の四天王)にも勝る」と原虎胤を大歓迎して迎えた。後一五五四年二月武田・北条・今川の三国同盟の折晴信(信玄)に許され甲斐に戻る。一五五九年二月武田晴信が出家剃髪し信玄と戒名の折、真田幸隆らと共に出家剃髪し清岩と号した

 一五六〇年もしくは一五六一年頃(永禄三年~永禄四年)長沼真言宗弘法寺の住職栄久法印と虎胤が法論の末法華宗(日蓮宗)に改宗され栄久山原立寺と成ったと思われる。開山上人栄久法印は安全院日隠と戒名、原立寺開山第一世となり、原美濃守虎胤は原立寺開基檀越となる。
 一五六一年六月、上杉謙信の小田原攻めの隙をついて信越国境の要衝・野尻割ヶ嶽城攻略の戦で大きな負傷を負ったとされ、以後武田の戦に原虎胤の名は見られなくなる。同年九月十日の第四次川中島の戦いの際には、傷がまだ癒えていない事と老齢を理由に、甲斐の留守部隊を預かっていた。
 一五六四年(永禄七)三月十一日、躑躅ヶ崎館近くの屋敷にて病死。享年六十八歳。生涯の出陣三十八回、感状三十八通、全身に受けた傷五十三箇所。
 原虎胤の墓所は「千曲之真砂」「歴代古案」に、原立寺本尊の下に遺骨を納む、床下に石塔ありの記述があり、長沼の地にお墓が存在した可能性が高い。

 原虎胤の子孫は三男一女あり、長男は横田高松の婿養子となり、横田康景次男原盛胤、三男原重胤、長女氏名は不明、初鹿野忠次へ嫁ぐ。外にも子孫は存在の可能性がある。

実に面白い!
この虎胤の系は後に「旗本原氏」となっている。
http://chibasi.net/ichizoku8.htm

===*===

その戦国時代末期から江戸時代初めのわが系の大和宇陀松山藩の九里は…

九里政直の苗字は元は岡田であった。
宇陀の福島高晴の時代から岡田政直はいたらしく、織田信雄が来た際には藩内の案内役を仰せつかっていた。

我が家の古文書には「政直 俗名岡田清左衛門、後九里ト名字改九里清左衛門、福嶋掃部様家臣御断絶後、信雄公宇多郡御拝領、以後土地為案内被召抱、法名性山道悦禅定門、同妻法名栴林貞雪禅定尼」とある。




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1 コメント

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Unknown (りひと)
2020-03-08 23:42:44
北条氏康はこっちのワークでも出てきてます。
ややこしいんですけど辿れる物もありそうですよね。
北条に嫁いだ女系がしりたいんですけど近いだけにワクワクしますね。
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