岡田氏に関することを調べていた。
伊勢の員弁にも「岡田御厨」があったという。
さらに岡田浩佐家文書というものが、何度か出てきていたので気になった。
この岡田家はどのような家だったのであろうか?
岡田浩佐文書に関係する荘園はどこであったのか。それが以下の3つである。
1 山城 愛宕 久多庄 大悲山寺領・法成寺領・摂関家領・醍醐寺領・三宝院領
2 山城 愛宕 大見庄 大悲山領・法成寺領・摂関家領
3 近江 未勘 大見庄 法成寺領・大悲山寺領・足利家領・醍醐寺領・三宝院領
久多庄: 角川地名=深洞山東南、久多川流域国境=長承2中原明兼勘注状初見=平治1忠通家政所下文、法成寺領、平等院法成寺修理杣山、田地35町=永暦1久多針幡大
【備考】 永仁7朽木文書=久多庄地頭代貞能と朽木庄地頭出羽義綱代祐聖が堺相論和与=正安1幕府和与裁許・文安6醍醐寺文書=三宝院領門跡領・大見庄と堺相論あり・→0102019「大見庄」参照・法成寺領として村名が見えるのはヘ2281長承2明法博士中原明兼勘注・庄名の初見はヘ3096永暦1前太政大臣家政所下文案・→2102042「針幡庄(近江)」参照
現在の京都市左京区久多(上の町・中の町・下の町・宮の町・川合町),左京区大原(尾越町・大見町・百井町)を範囲とする久多荘の中でも,特に,久多地域に伝来しました「岡田家文書」(京都市登録文化財),「東本家文書」(京都市登録文化財),「久多自治振興会所蔵文書」のことを称しています。田畠や山林の売買に関する資料が多いものの,各時代の領主による支配の実態や中世における山間村落の様子,周辺地域との関わりなどを示す貴重な文書群です。
山城国大見庄:荘園志料=なし・角川地名=四方を山などの山林に囲まれ、東は近江国、大見川が東南に流る=久多庄の南に位置する山間集落=永暦6忠通家政所下文初見、法成
【備考】 角川地名=建久8無動寺政所下文、久多庄と堺相論、葛川領下立山に打入る=嘉暦3久多本庄と大見新庄の堺相論(岡田浩佐家文書)=もと久多庄に含まれていたか=正中2承鎮法親王付属状、西南院領久多杣<付大見>=義演准后日記に久多郷内大見とみえる・カ2977平治1前太政大臣家政所下文=久多針幡大見3箇所見作田35町を大悲山寺領とす=これは法成寺領、平等院法成寺修理杣山・カ3096永暦1同政所下文=法成寺領久多針幡大見庄=庄号あり・近江国に大見庄あり、当庄のことであろう・→2199049「大見庄(近江)」参照
近江国 大見庄 荘園志料=なし・角川地名=庄号なし→大見(木之本町)=大箕とも(輿地史略)
【備考】 山城国愛宕郡(現京都市左京区)の大見か。近江に接し、久多庄の南に位置する山間の荘園である。なお、伊香郡木之本町にも大見の地名はあるが、山城大見庄とみておく。・→0102019大見庄(山城)
いずれも近江と山城のお互いに近いところに位置している。
次に、「岡田浩佐家」は、どのような家だったのか…である。
京都左京区の文書解説にあったので、ご紹介しておきたい。https://data.city.kyoto.lg.jp/node/14936
岡田家は愛宕郡久多村に居住した家で、文書中の系図・由緒書によれば仁和年中に上総介盛久という人物が久多荘に来住、それ以来久多荘の公文職をつとめたと伝える。
同家文書の特色は総点数382点の半数をこえる230点を中世文書(便宜上慶長5年以前とする)が占めることである。中世文書で年代の明らかなものは長久3年から慶長4年にわたり、11世紀2点、12世紀4点、13世紀7点、14世紀28点、15世紀55点、16世紀125点という年代分布で、とくに天文年間のものが70点の多きにのぼる。
最も早い年紀をもつのは長久3年4月付久多荘政所職給田安堵状であるが、これは文体・字体等に疑点があり、次の永承5年5月15日付公文職補任状写を最古とすべきであろう。
ほかに百姓申状・年貢注文・売券など、久多荘の住民結合をうかがうことができる文書が多い。なかでも久多荘の初見史料である前記公文職補任状写、久多荘住民の中核であった「十人百姓」の御公事条々案2点(天福元)、住民が代官の非法を訴えた百姓等申状(正応2)、久多関の関所奉行公文源三郎補任状(年未詳3月3日)、同じく関銭の受取状(天文14)等が注目に価いする。
近世文書は中世分に接し、慶長13年から明治元年にいたる。久多村村政に関するものが多く、知行所関係では村高指出(慶長13)、朽木監物知行高覚(延宝7)、国絵図作成時に指出された朽木監物知行所改覚帳(元禄11)などで、その実態がうかがえる。次に年貢収納関係は、年貢算用帳10点(寛政11~元治元)、減免高を書き上げた「田畑御用捨引帳」の類10点(弘化4~慶応4)など帳簿類が多くのこされている。
このほか、領主朽木氏から久多郷・大見村・百井村に出された申渡条々2点(慶長20・明暦4)、安曇川筋材木運上関係3点(享保8・享保14)など久多村を中心にした洛北村落の形成についての貴重な史料群である。
なお同家文書には新採訪追加分があるが、ここでは触れない。
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不思議な事に
「六角承禎書状案○岡田浩佐家文書」というのもある。
河童のことに関係する神社の記載も「岡田浩佐文書」にあるそうである。
https://kyotofukoh.jp/report600.html
次に調べたいのは「上総介盛久」という人物である。
さらに「中原明兼」が出てきている。
ここに中原氏(坂上氏系)が出ている意味は大きいと思う。
上総介盛久とは…上総介で仁和年間で見ると平高望あたりになるのではないかと思う。
仁和は、855-889年なので高望の息である良兼かもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%89%AF%E5%85%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E6%96%B9
平高望と妻藤原良方
その息良兼
それが、藤原北家良方流の糟屋氏につながることがわかった!!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%9F%E5%B1%8B%E6%B0%8F
系図によれば、藤原良方の子の元方が、糟屋の地で土着して糟屋氏の祖になったという。その元方は前九年の役で源頼義の軍に従った坂東武士の一人佐伯元方で、婚姻か主従関係によって藤原氏に姓を変え、糟屋氏の祖となったと考えられる[2]。
荘官を務めた盛久は治承・寿永の乱で活躍し、その子有季は源頼朝に臣従して鎌倉幕府御家人として活躍した。有季が頼朝の乳母一族比企氏の女婿であった事から、比企能員の変で北条氏と対立し、有季は討たれ、一族は鎌倉を去って京の朝廷で後鳥羽院の武士として仕えた。その後承久の乱で京方として敗北し、有季の子らはことごとく討ち死にしている。
…という事で比企能員の娘聟が糟谷氏
糟谷有季
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%9F%E5%B1%8B%E6%9C%89%E5%AD%A3
一族から一条高能とつながる娘もおり、一条能氏の母となっている。同じ妻の立場で、藤原兼光の娘もおり、
その兄が「日野資実」である。
「中原明兼」は次回にしたい。
そして関所公文源三郎が、実は「岡田氏」なのではないだろうか。
あと藤原良方結構好きです。藤原じゃなく平あたりだといいのに。でその筋が佐伯に行くとなあ、あまり好みません。ただ確実に巫覡巫女家系ですね。まあ男なら許しますけどね。私欲でブレないで欲しい一族ですね。2434