岡田重孝の息に「重政」あるいは「重昌」と出ている系図もある。
という事は、重政(しげまさ) → 黒田氏となり、「しげまさ」を「まさしげ」と反転させて「正成」となったようにも思える。
(反転は、平安時代から本当の名を隠すテクニックとしてあった。)
つまり、後に九里氏となる「岡田政直」も、同じように岡田重孝の別名であった「岡田直孝」「なおたか」から「なお」をもらい、反転させて後ろに「なお」を持ってきたとも考えられる。
さらに、兄弟ともに「まさ」をつけ
「重孝」=「直孝」の「孝」の部分を「政」にしたと考えられまいか。
岡田重政 岡田政直
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黒田正茂 九里政直 となったのかもしれない。
岡田は、後に黒田となり「正」に変更した。音は同じ「まさ」である。
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さらに、もう一人 大和郡山藩に九里又九郎がいる。
この人の周囲に岡田姓は少なく、岡田重孝の息という事はなかったかもしれない。
しかし、きれいに九里又八(大和宇陀藩)と九里又九郎(大和郡山藩)となり、気にかかる存在である。
この二人のおおもとには、やはり九里氏がいたのではないだろうか?
藤姓 九里又九郎高忠(宝暦江戸御家中姓銘帳)
九里又九郎 (享和分限帳)
甲府城(柳沢家が甲府城主となる宝永元年(一七〇四)一二月から享保二年までの一三年間の内の分限帳)
九里仁平治 (弘化三年)交付御城主之節 分限帳) 1844年
武田氏の許にいたのか、柳沢氏についていたのか。
史料も少なく、調査中である。
養子縁組の際に、もらった方の家の通字とつける際に元は前についていた一字を後ろに持ってくるのは、見かけませんでしょうか?
また、私に身近な方では、「鎌倉前期の中原久経」
文書で「経久」となっていて、後に孫の名前にもあります。
松田頼秀も、本人と思われますが秀頼
中山教親が中山親通(これは反転ではありませんが、「親」が前に着ました。)
本人の中でも行っていることもあり(文書に書く際に諱を使いたくないのか?)、また、養子が入ってきた際に実子と区別するためなのか?前の通字一文字が後ろに…またその反対も見受けられると思います。
また、偶然出会った際にはブログにしますね!
2.幼名から元服をへて成人男子になる時、通字を含む名に改めます。さらにこの時、烏帽子親の一字と通字を組合すこともあります。
3.また、武功を立てた時に主君の一字を貰うことがります。(拝領名)
4.また新主君の名が家来である自分の名と同じ場合、憚って名前や苗字を変えることがあります。
いづれも反転改名ではありません。
詳しくご説明ありがとうございます。偏諱もありますね。
さて、
岡田重孝は誅されて、妻・子どもも…と云う時に助け出されて名前を替えたとすると…という架空の話です。あいつの子か?と疑われては困るので、すぐにはわからないように工夫したと想像してみました。
『反転改名』とは、前と後ろが一字もしくは全部入れ替えになった場合を私が勝手にネーミングしたものです。(音も大事と思います。)
中原を調べている際にあったと思いますので、また出会った際には記事にします。
(只今は私の記事は戦国時代なので、また平安・鎌倉時代に戻った時に。)