源光行の娘は建礼門院美濃であり、美濃は建礼門院=平徳子のすぐそばに居た人物である。
平徳子は安徳天皇の母親であり、壇ノ浦の戦いで生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔いながら生きるという 激動の人生を送る。
さて、ここで思い起こすことがある。
九里太郎=蓮忍入道が冨城蓮忍として居たのが因幡国の冨城郷であり、岡益の石堂のすぐ近くなのである。(もしかすると冨城郷内にあったのかもしれない)
岡益の石堂は安徳天皇陵墓参考地、ともなっている。
つまり、そこを守る役目も負っていたのではないか?という事を考えてしまう。
もしもそうならば、この源氏物語の研究者であった源光行の近くに存在していた冨城蓮忍であっても、なんら不自然ではないと思うのだ。
但し、近頃の私の想定では、蓮忍は1200年ジャストあたりに生まれたとしており、安徳天皇が歿してからやや間が空いている。
蓮忍が因幡国の在庁官人となっていたのは、たぶん1245年前後か?と想定している。
1250年(もしくは1249年?)には、東国下総国にいて(帰ってきて?)千葉氏の執事的な役目を弟カ甥の常忍が負っている。
常忍の母は千葉氏という。夫は源光行という説があり、そこを調べているのである。同じ時代に、目立つ源氏の光行が三人は存在するため、その見極めが難しく、また、本当に源光行が父であったという証拠もない。
土岐光行、南部光行(=信濃三郎光行)など、【光行】は人気の名前であったようなのだ。
富木常忍と共に同じ千葉氏の執事的な人物に【長専】がいたが、此の周辺を調べてみると、意外と源氏物語研究者のの源光行との接点があるかもしれない…と云う気になった。
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これから、この辺りを煮詰めていきたいと思う。