長田氏・永田氏
平高棟の後は公家として続き、十世紀末頃の権中納言惟仲の従兄弟・親信の流れは有職故実に通じ、「日記の家」と称された。そのなかには親宗流・行親流などもあったが、近世まで残ったのは信範流のみ。
この流れでは、華族として西洞院、平松、長谷、交野、石井の五家(このほか、絶家として烏丸、安居院、葛野、桜町、鳴滝)を出し、武家となったものには、若狭国遠敷郡の丹生・長田(永田)がある。
良兼流の尾張平氏……尾張東部の春日井・愛知・丹羽郡等に繁衍。一族には長田、水野、志談、那古屋、門真、岡田、大田、師桑、立木田など。ただし、武家華族の水野や永井〔もと長田〕は実際にはこれとは別流か。加茂、宮地は三河住か。また、肥前の安住は良兼後裔と伝える。
と、あった。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/KANMUG.HTM
でてきた! 西洞院!
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若狭国遠敷郡丹生 永田時信 とずっとずっと以前に調べた人物に行き着いた。
平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信
時忠の従兄弟の下野守師季の孫「永田太郎時信」
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長田庄
長田(中世) http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7332948
室町期から見える地名若狭国遠敷【おにゆう】郡のうち応永28年11月19日の幸阿如法経米寄進札銘によれば,「〈長田〉願主幸阿」が明通寺へ如法経米10石を寄進している(小浜市史金石文編)
また,正長2年6月の若狭太良荘地頭方田数百姓名寄帳(東寺文書3/大日古)に,馬上免畠地子を負担した「〈長田〉右近入道」が見える
これらの地名は,文永6年11月5日の恒枝保内太良荘押領田地坪付注進案(東寺百合文書ゑ)に見える恒枝保内にあった太良荘田「長田」「永田」という地字と同一のものであろうか
年代は下るが,天文8年12月24日のりうせん(竜前)小次郎大夫田地売券に「在所遠敷長田之下横田森下也」,同日付の同人寄進状に「長田之横田下也」とも見える(西福寺文書/小浜市史社寺文書編)
なお,太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア),また,この隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,長田(永田)を名字地とする平師季流があったこれが当地と同じものとすると,当地名は平安期にさかのぼる可能性がある
現在上中町野木の玉置地内に上長田・下長田の小地名があるが,関係あるか 。
お水良さそうな場所にはいそうですね。
あともう一個、肥前の安住は良兼後裔この辺りが若干来た〜!と思ったんですよね。阿積のが文字では好みですけどスミがズミかで2文字探したいです。肥前もお水いい場所ですね。阿州というと徳島あたりなんですけど大阪との接点が近そうに思うんですよね、四国ですけど。良兼と徳島って関係あるのかなあ?大阪住吉あたりも。それにしても名字って役割分担なんですかね?昔気になった名字がいっぱい現世でも出てきてますけど、ドンピシャの配置のハマってくると下々は安心して平和で生きられるんですよね。
名前貰ったり変更もや偉い方から貰ったりなどもどうもヒントになりそうですよね。で葛原親王のお父さんが知りたいんですよね。久しぶりに探してみますが、あれ?新田となんかあったような?神社だっけなあ?東京だったけどあの辺りと若狭関係探そう、近くでお豆腐は買ったような。お水絡みの土地で口のする方と移動する方と両方も縁あるのかも?木のパワーの口コミでしたけどお船も木で作られている時期もありますけど不比等じゃない車持の意味合いにもなりそう。記事とは全く関係ない事思い出すってあとで何かあるかもなので書いておきますね。
http://kamnavi.jp/ny/obama.htm
よほど良い鉱物が採れたのかもしれません。
近くには若狭の国分寺もあったようです。