桓武平氏高棟流の系図が、あるいは身人部姓であり、尾張氏の可能性を示唆されていたが(前回の記事の中のweb情報)
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/c8bf052590bb5aad927d610cf353372d
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/a1b7feeb8d86be325d04e74b6e697e96
そして、朽木氏の系譜
http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html
「高島郡と若狭・越前の関係は深く、平安末期には本佐々木氏の船木時家が高島郡船木から若狭に進出して佐分氏を名乗り、若狭国御家人となっている(のち佐分氏には桓武平氏高棟流の加賀守親清が養子に入り、六波羅探題北条重時の若狭守護代になっている)。また高島七頭のうち田中氏と山崎氏は越前に進出している。」
何だか、この構図はそのまま、九里にいた本郷氏が若狭国大飯郡本郷へ進出していった構図となるのではないだろうか。
そしてその本郷氏となる前が美作朝親であり、大江親光の息・親厳の弟となる人物なのだと私は思う。
大江氏はうんと遡ると土師姓である。
桓武天皇の妻の母が土師真妹と、土師姓であり、後に「大枝朝臣」を賜わっているという。
そうなると大江氏も桓武平氏に繋がってくる。
若狭大飯の郷土の方が、本郷氏の出身は「桓武平氏」であるという結論に達したのも真実であるかもしれない。
そして美作朝親が若狭国へ赴いた後に、同じ大江・中原氏から近江八幡本郷に入ったのが九里氏ということになるのではないだろうか?
美作朝親(武家家伝 本郷氏より)
本郷氏は、中世若狭国大飯郡本郷に拠った武家で、鎌倉御家人源朝親の後裔と伝えている。その出自は、村上源氏の流れとするのが定説だが、清和源氏説、桓武平氏説もあり、必ずしも明確ではない。
初代の朝親は美作蔵人、美作左近大夫を称し、『吾妻鏡』の建暦二年(121)に実朝の鶴岡八幡宮参拝に随行、建保元年(1213)に鎌倉将軍御内諸番役の一つである「学問所番」が設けられると二番に「美作左近大夫」としてみえている。鎌倉御家人として活躍する朝親が、若狭国大飯郡と関係をもったのは、承久の乱後のことであった。
すなわち、大飯郡本郷の新補地頭に任じられ、同地に下向、子孫は本郷を称して土着したのであった。
いわゆる西遷御家人のひとりで、鎌倉時代は在京御家人として活躍した。
隆泰が若狭国一宮造営に関して、泰景が坂井郡三国湊の紛争にさいして、それぞれ六波羅探題の両使としてあらわれ、在京人としての活動が知られる。
本郷という土地の場所は、その土地の要の様な意味合いで各地に使われているようなのですが、
「本郷氏」私もまだよくわからないのです。ただ、美作朝親氏から本郷氏になったという事にはこだわっています。
家康とか三河の流れで本郷薬師だったんですけど最後はスサノオになるというか?私もいまわけわからないんですけど、本郷氏調べると多分理解できるような気がします。源氏も家康も薬師がある程度目標になる。で薬師は平家のが関係強いと思うんですよね。桓武さんは、ちょい違う気がしますが奥様か子供にはその流れがありますよね。葛原親王経由でそれがまた藤原とか源氏にもルーツによっては入っています。素材としてある方とない方の見極めが難しい藤原と源。九里さんには継承されてるというのは感じるところです。
そうあと土師氏が大江の名字貰っちゃうんですね。土のままのが分かり安かったのにと。貰った名字って本当実は迷惑な感じ。結構裏の意味ありそうに思いますよ。土が江か枝になるとお水か植物に信仰が変化します。どっちも土由来と考えるとブレない思いますけど。
本郷調べてみます。9347