さて、牧村方面を調べていて、北里の小田神社の説明を読んでいた。
http://www.biwa.ne.jp/~takiyan-/jinnjya/rekisi.htm
「邇保惣社式内小田大明神と称し、その昔、第11代垂仁天皇(前29~70)の時代に皇女である倭姫尊(やまとひめのみこと)が、天皇の代理としてお伊勢さん(伊勢皇大神宮)に献る稲米の耕作を司る土地をお探しになったとき、益須ヶ嶽(やすがたけ)(現在の三上山)の麓を経て、北に向かって邇保荘(にほのしょう)(現在の北里学区)に入られ、ここに留められて水辺にさざ波が立ち、湖の幸を求めて湖畔に住みついていた里人に農業開田の事を教えられた遺跡で、その神徳に酬いる為創立された社と伝えられています。
地名の小田は、倭姫尊の業績をたたえて伊勢神宮に奉献する神饌米を作られた田「神田」(じんでん)として、これを御田と呼び、後に小田となりました。(上古末期)これが地名の源です。
楼門は、入母屋造檜皮葺で、南北朝の建造ということで重要文化財の指定を受けています。
また、重文「美術工芸」として大日如来座像を飛地境内地(十王町地先)に収蔵庫を設け、十王町「大日講」の講社によって奉賛されています。」
この「邇保」は聞いたことがある。
「仁保氏」には「平経久」がいて、平子氏ともよばれていた。
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仁保氏と邇保惣社、
九里太郎経久と平(平子・石川)太郎経久と、同じ年代を生きている。
東寺の島郷(伊庭氏と九里氏が担当)は、この辺り(北里学区)も範疇であったらしい。??ほんとかな?
東寺と九里が文書に現れてくるのは1400年代のことなので、鎌倉時代1233年はどうだったのだろうか?
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歴博のDB「島郷」の近江国には「角川地名=蒲生郡大島郷の内=近江八幡市島町、丸山町、白王町、中之庄町の辺=承保1庄司土師助正=鎌倉期、山門法花堂領、浦年貢米40石=戦国期に複数領」
「『荘園志料』の読みオキツシマを改む 」とあった。奥津島という名を大島郷、島郷と改めたのだろうか?
また、三村庄にも「蒲生郡島郷の一部とみるのが有名・『荘園志料』の読みミツムラを改む・蒲生郡島郷説をとる」とある。(うーん、よくわからない。)
土師助正をさらに蒲生郡志で調べると、土師宿禰足時の二男…等あり、そのページに櫟井氏は刀禰職とある!
この周辺の事は、まだ佐々木氏が勢力を拡大する前となるようである。
九里はまだ「江州中原氏」の時代で、愛智郡や余呉郡にいた時代とラップすると思う。