昨日に続き、武功夜話より
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no95.htm
成政が信長に仕えたのは16歳であった。次兄孫助は弘治2(1556)年に信長と弟信行が跡目を争った名塚合戦(稲生原)で戦死した。
長兄政次も4年後、永禄3年の桶狭間合戦で戦死。
兄2人を亡くした成政は佐々家の跡を継ぎ、比良城主となった。
信長は永禄元(1558)年、公方様に拝謁のため隠密に上洛する際、前野勝長(長康の弟)、佐々平左衛門をお伴の警護に加えた。
桶狭間戦の勝利から種ケ島鉄砲に興味を持っていた信長は、泉州堺町を見聞遊行。堺町のおとな衆に案内された時、南蛮渡来の鉄砲を調達した。
以後、清須城中において鉄砲談義に熱心で、また清須の刀鍛冶に鉄砲を工夫して作るように仰せ付けた。
同5年2月、信長は鉄砲の調達を成政に命令。
家臣の佐々平左衛門、同与左衛門、前野勝長を江州(滋賀)国友村へ遣わし、二百有余挺を入手した。以来、佐々党は鉄砲の工夫に余念がなく、各戦では鉄砲での働きが比類なく多く、こうして佐々の鉄砲隊は早くから組織された。
まさに鉄砲の時代のはじまりである。
大和宇陀松山藩・丹波柏原藩の九里も、加賀藩の九里も、鉄砲と関りが深かったと思われる節がある。
時代はまた戦国に戻る。↓
三男 前野小兵衛勝長
勝長は佐々成政の家老役を務め、前野加賀守勝長と名乗り、越中国(現富山県)砺波郡井波城主となり15000石を領した。信長の鉄砲隊の中心である、佐々成政の鉄砲奉行を務め、三段撃ちを生み出した一人です。成政の雪のアルプスさらさら越えの扈従(したがう)の1人でもある。勝長の末裔、テレビ「水戸黄門」の助さんは本名佐々介三郎宗淳。この戦国の三兄弟は、織豊期の幾多の合戦に参加して、時には敵、時には味方となり骨肉相争い戦国の無情をあらわすところもありました。兄弟それぞれの立場から、内部事情、相手側への見方など詳しく書き残されています。兄弟はともに戦国の野に雄飛しますが、侍魂を貫き通して何れも主君に恵まれず、江戸時代には武門として残ることができませんでした。
天正13年(1585年)の富山の役の際には、佐々成政は富山城に兵力を集中させるという作戦を採ったため、前野勝長は事前に井波城を出て成政の本城である越中国富山城へと退いています。しかし前野勝長は秀吉方の丹羽長重の陣に攻撃をかけて戦死したといわれています。富山の役ではさほど大規模な戦いはなかったのですが、前田家も戦死者の供養をしていますし、小規模な戦いがあったことは間違いありません。
佐々成政が降伏した後は、井波城は前田家の持城になりますが、佐々成政が肥後に去ったため既に井波城の戦略的価値はなく、時を置かずして廃城となったと思われます。
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その肥後にも佐々氏となっている前野直勝(久三郎改越前)という事は、この直勝は勝長のことではなかった…?
それとも、生き延びたのだろうか?
わからない!
直勝は柏原織田家臣系譜では、「肥後国益城郡禄千石命足軽大将後仕加藤清正賜菊池郡内宮園染土川原三村禄千百十石命代官又命微章蛇目」とある。肥後国で生きていたはずである。
佐々氏に関しては多少資料の本も集めていたが、この勝長の名前は出てこない。
宗能はイコール「宗康」であり、息に小坂雄吉・前野長康・前野勝長である。
その宗能の弟に直勝がいる。
一方、直勝の父は「宗直」である。
佐々家覚え書の系図 (佐々瑞雄・淳行 著)
新版 佐々介三郎宗淳 (但野政弘 著)は柏原織田家臣系譜を参考にしているのだが、熊本佐々家系譜の註も付けている。
幾つかの系図其々が違っている。
柏原織田家臣系譜では佐々宗淳につながるのは直勝の系
「宗直ー直勝ー直尚ー宗明・宗淳」である。
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no3.htm