この系図には頼衡という名が出てくる。土岐頼貞の息で乾氏の祖と成る道謙の兄弟である。
船木庄(十七条)に居住していた人物、左衛門蔵人、船木四郎とある。
頼春が1352年まで、近江国の船木庄に潜んでいたのは、なぜなのか。
「観応の擾乱」が原因だったのではないだろうか?
1351年12月、足利直義軍は敗北し、1352年1月になると直義は遂に降伏。
足利直義の方についていたのか?
もう一度群書類従を読んでみよう。
頼重落城の後…頼重落城とはいつの事だろうか?
頼重ー頼春ー頼夏・頼尚ー正尚ー正頼…
その頼重の息である頼春と頼重の孫の頼夏が不在の間、頼衡が美濃国の船木庄を守っていたという事になるのかもしれない?
そこで、近江国舟木庄から美濃国へ還る際には「土岐庄」へ、となったのかもしれないな?…と思っているのだが。
さらに混乱するのだが、舟木頼胤(土岐頼員の弟?船木頼重と同一人物とも言われる)…ともある。
諸説ありすぎて、とても付いていけない。。。
パン殿様の「土岐章」氏がまとめた系図があるそうで、それが一番真実に近いのでは‥‥という話である。
===*===
では、土岐庄には、もともと誰がいたのだろうか?
不在の地であったのだろうか?
土岐庄は「土岐氏の本居なり」とある。
始まりは「鶴が城」、そして、後に「大富館」??に移り、
その後、「長森城、革手城」と移り変わっていったと思われるので、かなり初期の頃に土岐庄が存在していたのかもしれない。
===*===memo
他に気になった事。
土岐頼清の母は佐々木頼綱の女
世保康政(弟国康、弟満康[子に持康〔船木光俊養子〕]、女子[土岐詮直室])
─持頼(船木持康の子)
─政頼。