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永井氏発言部分に「中原重能」が登場している。「頼朝に対してきつく言っていて」…
其の外東京大学史料編纂所DBに範頼が没してからの1232年に名が出ている。


少監物中原重能〈臨時内給 〉
この少監物とは、コトバンクによると
「〘名〙 令制の官職の一つ。中務(なかつかさ)省に属して、大蔵寮・内蔵寮の倉庫の収納物の出納の管理をつかさどった。正七位下相当。下物職(おろしもののつかさ)」
「日本古代の令制官司である中務(なかつかさ)省に属する品官(四等官の系列外の官)の一つ。大監物2人,中・少監物各4人,史生4人より成る。職掌は庫蔵の物の出入に立ち会って監察し,鍵を後宮の闈司(みかどつかさ)から請け取り,またこれを返納することであった。…」
とある。
wikipediaによると、中原康貞との関係に言及している。
建久元年(1190年)6月28日、都の院庁官・中原康貞が、範頼を通じて院伝奏・藤原定長と、関東申次・吉田経房を訴えた事に対し、頼朝は訴えをまったく聞き入れず、両者ともに公武での務めをよく果たしている良臣であり、この事は口外しないよう範頼に言い含めた。
康貞の讒訴の意図は不明だが、範頼が中原康貞の仲介を行ったのは、康貞の弟・中原重能が範頼の家政機関の運営を行う吏僚であったためと考えられる。頼朝挙兵に参じた頃の私的郎党はわずかなものであったと思われるが、追討の実績・三河守補任や所領の獲得などによって私的な主従関係を結んだ武士の数も増えていったと見られる。また範頼と京との結びつきの強さから、直属武力なる武士たちには朝廷の武官職を持つ者も多かった。養父・藤原範季は九条兼実の家司であり、西国遠征の際には養父との接触にも慎重だった範頼が公家の争いに関わったのは、何らかの事情があったものと考えられる。
同年11月の頼朝上洛に従い、頼朝任大納言の拝賀で前駆をつとめる。この時の上洛で源氏一門の源広綱が前駆に選ばれなかった事を理由に遁世した事を、広綱の使いから聞いた頼朝は、「行列の前駆は後白河院が定められた他は、参州(範頼)は兄弟であるので他の者には準じがたく、このことは相模守(大内惟義)以下も承知していることだ」と述べている(頼朝が推挙した供奉人は範頼と星野範清であったが、範清も頼朝の母方の従弟である)。
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