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因幡国司であった【平時範】の日記 (4)因幡国伊福部臣古志 

2020-07-12 | 永田氏

【平安時代の国司の赴任】森公章 著 臨川書店
【日本歴史】第843号 伊福部氏系図と水依評 中田興吉 著

の二冊を読みつつメモしていきたい。


平安時代の家司に「家司受領」という人がいて、摂関家の家政に深く関与しながら、しばしば受領に任用され、経済的な貢献をする人のことだそうである。

特に【平安時代の…】の本では道長の家司受領であった藤原惟憲が因幡国司を離れる際に、いろいろと問題があり、次の国司橘行平に渡す際、また渡してからもこの問題がくすぶっていたようである。

ココには深くは入らないが「今昔物語」にも登場している因幡国造「因幡千兼」を(行平が)殺害し、その後因幡氏が滅亡したようで、動向が不明となったとある。

その後、高草郡を拠点とする伊福部氏の者が出現したようで、このことが、力を増すことにつながったようである。

『時範記』にも登場する介久経の周辺から見ていこうと思う。
まず、久経の曽祖父「助茂」…因幡国府所在郡 法美郡の郡領氏族から国衙在庁官人への転身

さらに遡ると
和銅三年(710年)の銘(略)
伊福吉部徳足比売臣 慶雲四年 従七位賜 和銅元年卒

法美郡より采女として出仕(天武・持統朝頃に出仕)

天慶三年(940年)高草郡 郡老・擬大領の人物在り

久経 一宮宇倍神社の筆頭社司たる一神主の系統 号中安田大夫

===*===



その昔は因幡全体が「水依評」とされていたという。
水依評が壊されて高草郡が置かれ(大化二年)たのではないか。
国造のクニは評へと移行したものの、国造そのものが廃止されたわけではない。
上記の「日本歴史」の中田氏の説である。

この二冊の本からおぼろげながらわかった事は、
水依評が置かれ(天智天皇)、その後高草郡となり(天武天皇)、それ以降、伊福部氏の力が増したことである。

その頂点が「久経」の時代であったかもしれない。

久経の周辺を年代も併せつつ見る。


この久経の息に「高庭介経俊」がいる。
久経は「平時範」と同じ時代を生きている。1054年に生まれた時範。
久経の息 経俊は、1075年あたりに生まれたと仮定。
そこから源頼朝の伊豆へ1160年とすると、間は85年ある。(三人は間に入ることになる)
1147年に生まれている頼朝。

資経が付き人をつける(1160年)…資経は1120年位に生まれたと仮定
経俊 1075年生まれ
?  1100年生まれ
資経 1120年生まれ
経信・実経 1140年生まれ

しかし、上記の系図では経俊と資経は系図では繋がっていない。
経方の系が資経とつながっている。

高庭介資経とあり、同じ系となるのであろうかと思うで、どこかで養子となり伊福部氏に入ったのだと思う。
系図でつながって書かれていないことが不思議である。

また、この系図の中の経方は、【平安時代の…】にある競射と貢馬の章の中の「四疋…介久経、三疋…親定(貞)、常方、常貞・・・」の常方のことなのではないだろうか?

親定は?である。が、
経方(常方)と常貞(もしかすると経貞か経定)は高庭介の経俊と「経」でつながっているのではないだろうか?
その続きが、高庭介資経となるのではないだろうか?

===*===

以下は私の誇大妄想だが、

経俊の兄に経方がいて、
経俊の息に経貞がいる。

実は、これは宇多源氏の佐々木氏の系図なのである。
人名が同じ名だけだ!と思うかもしれない。
私もそうかもしれないと思う。

この経俊は「日野冠者」とあり、息経貞は「日野小太郎」(母 野路春三安堅の娘)
経俊の母は「後冷泉院女房綾御方」とある。
妹は「郁芳門院女房大夫局」となっている。


調べてみると…以下が見つかった。
能美氏
現鳥取県東部である因幡国高草郡能美郷起源とも言われるが、宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)佐々木氏流がある。

さて、因幡国と宇多源氏繋がってくるのだろうか???

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