下河辺行平の妹 東胤頼の妻…とある。
行平の父は下河辺行義で、小山政光の弟である。
政光の息(三男)が結城朝光となる。(母が宇都宮・八田宗綱娘の寒河尼)

播磨局了阿より以前に秀郷流の下河辺氏も千葉氏(東氏)とつながりがあったのだ。
千葉氏(東氏)は土岐氏とつながり、
千葉氏(東氏)と藤原秀郷流下河辺氏ともつながりを持ち三崎荘・海上荘・下河辺荘周辺の近隣関係を強化し、
其の同族の小山氏は宇都宮氏(中原氏)とつながりがある。
更に歌の関係では
御子左流藤原定家の息である為家の室としてと宇都宮頼綱娘、
東胤行室として為家の娘が入っている。
と、藤原の御子左流とのつながりも持つ。
歌関係は京の内部情報をも運んできたのではないかと思う。
東氏・宇都宮氏にとっても、歌会は和歌が好きで才能発揮というだけではなく、情報を得るためでもあったように思う。
戦国時代からの「茶の席」がそうであったように。
*****
さて、九里となった中原久経の母は源義朝に嫁ぎ、離縁し、中原氏に嫁いだというが、この宇都宮氏の中原ではないかと思って調べていた。
「宗」「綱」や「房」が付いておらず、通字的には遠いと感じた。
しかし、富木常忍の親戚に秋元氏がおり、宇都宮氏の中にも秋元氏がいる。
また、宇都宮・中原宗房と同じ時代の主典代に中原政経と中原基兼がいたが、常忍の親戚と思われる中原能兼がおり、ともに日蓮の支援者でもあり関係が近い。
その周辺事項を考えると、宇都宮氏であった可能性もある。
そして宇都宮・中原信房の所領善積荘が近江国の湖西にある。高島郡と思う。かなり大きな荘園であったようで「善積郡」ともよばれていたそうだ。(コトバンクより)
そうなってくると、高島郡を持っていた佐々木高信の許に居たと思われる中原秀重(唐崎で討死)1235年‥‥が信憑性を帯びてくる。
もう少し、宇都宮・中原氏を調べてみようと思う。
以前書いたことの中に答えがありそうな気がしている。
特に、佐々木経高周辺。
もう一つ、因幡国富城郷が100年後だが宇都宮氏の山田氏庶流友枝氏に渡っていることも、何かしら関係があるのではないかと思う。


