九里種信の古文書を調べていて、「乾」or「紀」or「起」太蔵人を想定していた。
昨夜 東京大学史料編纂所DBの中に「乾太郎」を見つけた。
それが白い方の「乾」である。
「建内記」(記述は1414年(応永21年)から1455年(康正元年)まで)
佐々木経方の五男か六男と言われている「行範」が祖の「乾氏」がいる。
源義経の息「乾氏」(南都衆徒)もいる。
土岐氏の頼貞の息「道謙」が「乾氏の祖」であり、武儀にいる。
足利幕府の御家人として「乾太郎左衛門尉定直」の名がみえる。
近江の湖北(長浜市山科町)大戌亥町周辺?に「近江乾城」があり、城主乾河内守盛国が見える。
江源武鑑の中にも
乾権頭吉武
乾河内守盛国
乾次郎三郎 十六歳
乾久内(宮内?)
乾采女正
軍奉行 乾兵庫介 在判
乾安房守 旗頭内
乾加賀守
乾主膳正
乾伊賀守
乾右馬頭
乾甲斐守
乾武蔵守
乾刑部
乾兵庫助
乾備前守
乾備中守
乾豊後守
江州津田の入江にて白い菖蒲の花が咲いたと現地の地頭である乾兵部少輔実忠が観音寺城へ申し上げる。
乾河内守盛国(近江乾城主)は、 滋賀県長浜市山階町
乾太郎左衛門尉定直は足利義昭に仕えていて、河内国の若江にいた。
河俣御厨庄(河内国若江郡) とweb上に出てくるのだが、そこも山科家領化と書かれている。
漢字は違うが盛国も定直も「やましな」と関係がある。