九里 【九里】を探して三千里

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鎌倉時代を作り上げた「縁の下の力持ち」たち。

2018-04-28 | 雑記

鎌倉時代のことは(も)詳しくはないが、地下家が活躍した時代だったのではないだろうか。
ごく一部の限られた人であったのかもしれないが、大江広元・中原親能・清原清定・三善康信…などの活躍ぶりを見ていると、「舞台」で輝いていると感じてしまう。


例外はあると思うが、だいたいは従五位下の頭打ちの「決まり」があり、才能に溢れていた者も、家司となり、公家の下にいた者が大方であったろうと思われる。(私の想像。)時折、それ以上の人もいたが、ごくごく少数である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

大江・中原・大中臣・清原・三善…いずれも明法道・明経道・文章道・算法道・紀伝道など自分たちの知識・才能を最大限活用して作り上げた「鎌倉幕府」だったのではないだろうか。知識・才能発揮の場であった!と思う。

地下家
外記方
大外記、外記、史生、文殿、召使、少納言侍、中務省史生、大舎人寮、同史生、内蔵寮官人、同史生、造酒司史生、縫殿寮、同史生、大膳職、同史生、大炊寮史生、掃部寮、内豎、陣官人、左馬寮、右馬寮、兵庫寮、同史生、賛者、使部
官方
史(左大史・右大史・左少史・右少史)、史生、官掌、召使、弁侍、内舎人、内匠寮史生、大蔵省、同史生、木工寮、同史生、主殿寮、同官人、左生火官人、右生火官人、使部
蔵人方
出納、御蔵小舎人、蔵人所衆、同行事所、図書寮、同史生、内蔵寮官人、同史生、主水司、同史生、院承仕、大仏師、絵所
その他
検非違使、楽人、滝口、近衛府、院司、陰陽寮、内膳司、御厨子所、上下御倉、画所、
摂家、宮家、清華家、大臣家、一部の羽林家、門跡などの諸大夫、侍

~~~*~~~

面白い記事を見つけたので、ご紹介したい。御成敗式目に関してである。

https://researchmap.jp/jo5krqsuh-2231907/


2018/03/11
『御成敗式目』は誰が作った? その②

 『御成敗式目』の起草者については、以下の有力な3つの言説があります。

①清原教隆、法橋円全、矢野倫重、太田康連、佐藤業時、斎藤長定の6人に題目を与えて、それぞれの自宅で意見を書かせ、それを集めて51ヶ条に整理した。(『関東御式目』〔永仁4年=1296成立〕など)

②北条泰時から太田康連に編纂を命じた。書記は法橋円全を任じた。(『吾妻鏡』〔少なくとも永仁5年=1297以降成立?〕貞永元年5月14日条)

③執権連署(北条泰時・時房)と評定衆の計13人の意見状で題目を確定し、それを矢野倫重、斎藤長定、佐藤業時に下した。(『平林本御成敗式目』〔康永2年=1343書写〕など)

 ①②③相互に微妙な共通点や矛盾がありますが、結論からいうと、どれも決定打に欠けます。「本当は誰が作ったのか?」ではなく、「誰が作ったといわれるようになったのか?」と問いを転換することが意義のある作業になります。

 ①説(6人説)は幕府の奉行人・斎藤基茂が記した『式目』の注釈書にあるもので、斎藤流注釈の説として受け継がれていきます。鎌倉後期には確実に成立していたことが分かるので信が置けそうですが、作者筆頭にくる清原教隆は、貞永元年(1231)の『式目』制定時に鎌倉にいないことが明らかなので、いきなりケチがついてしまいます。

 清原教隆は、学問の家である清原家の生まれですが、傍流であり、京都の公家社会ではパッとしない学者でした。しかし、仁治2年(1241)に鎌倉に下ってからは幕府の有力者(金沢文庫を作った金沢実時も含まれます)に学問を伝授し、鎌倉知識人界の権威になりました。死の直前、京都に帰って大外記となることにも成功します(文永2年=1265)。新天地・鎌倉に飛び込み、人生を変えたのでした。彼は鎌倉で漢籍の伝授や『源氏物語』の講読を行っています。清原教隆の没後、具体的な経歴は不明になりながら、知的権威の記憶が残っていたころ、「あの教隆先生なら、『式目』制定にもあるいは…」と、①の6人説ができたのではないでしょうか。

(私*教隆は、清原頼業の孫です!)

 ちなみに後世、さらにこれが肥大化して、「北条泰時がこっそり清原教隆に依頼し、『式目』を作らせた」という説まで生まれました。清原教隆単独説は、室町時代後半に『式目』注釈に参入した清原業忠がでっち上げたものと考えられています。同姓の教隆を作者にすることで、清原流の『式目』注釈の権威化を図ったのでしょう。さらに清原家は、13人の起請文の署名を改ざんして、教隆の名前を筆頭に加えることまでしています。

 次に②説(太田康連説)をみましょう。太田康連は頼朝に仕えた有名な文士・三善康信の子で、当時評定衆の一員でしたから、いかにもありそうな話です。しかし『吾妻鏡』は三善康信やその一族を褒めたたえる話が多く、三善氏の子孫が編纂した可能性が高いといわれています。『吾妻鏡』のくだんの条は「(泰時は)もっぱら康連に命じられたのだ(偏に玄蕃允康連に仰せ合わす所なり)」と、康連だけに『式目』制定の功を帰属させる書きぶりになっており、ちょっと疑わしいです。さらにいえば、清原教隆単独説のでっち上げぶりと、よく似ています。

 最後の③説(13人説)は、出所がよくわからないので、なんともいえません。しかし、傷がないからといって通説としていいのでしょうか。①②説ともに、出所が推測できて、かつ古いことが明らかなのに、それゆえにこそ疑わしいとするならば、③説をそのまま採用することも躊躇されます。③説の出所はさらに精査する必要があります。

 植木直一郎『御成敗式目研究』は、①②③説を総合して、まず評定衆ら全員に要綱を示して題目を決定し、それを矢野倫重、斎藤長定、佐藤業時に下して起草させ、さらに草案を太田康連と法橋円全に確定させた、と論じています。ですが、そんなにムリヤリ折衷させてなくてもいいじゃないの、と私は思います。冒頭に述べたとおり、決定打がないわけですから、『式目』の作者をあるいはAに、あるいはBに帰属させようとする諸言説の出所と動態を吟味したほうが、より生産的なのではないでしょうか。



~~~*~~~

清原氏・三善氏(矢野氏)・佐藤氏・斎藤氏が主力メンバーだったということでしょう。法橋円全がちょっと不明でした。






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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-03-15 21:53:42
神社での奉納算額ってあると、おっおー!っと思いますね。
この関係者絡んでくるでしょうね。知性の筋の方々。
テレビで最近出てる清原さんは、例の方と同じ国際弁護士の学校の特待生だと言ってましたよ。来てますよね。元彌も偽元彌も超出てるし、こちらのプログ効果かもしれませんよ。
嫌がる人もいそうなのでちょい注意もした方が良いと思いますが、筋の方しか出来ない事があり、各々に最適なポジションは無限にあるにで妬んだりしないで探すだけですよね
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