ちょっと衝撃の「錦氏」の記事でした。そのままコピーさせていただきました。
http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/nishiki.htm
三善氏は渡来人系錦氏
錦(にしき)は錦部(にしきべ)に通じるという見方もある。即ち、渡来人の倭漢氏(やまとのあやし)に属し、近江滋賀郡錦部郷、浅井郡錦織郷などに根拠を置いた氏族で、阿智王(後漢霊帝の子孫、百済から日本に帰化、坂上田村麻呂の祖とされる)に随い帰化した随従漢人の一つという。
錦部村主は韓国人波努志(波能志)より出づるともされ、また錦部村主薬麻呂等について「後漢献帝苗裔」と三国志に登場する献帝の子孫とされていた。また正倉院文書に近江国の人として錦村主特万呂らの名前が出ており、別文書で浅井郡人錦村主清常刀自に位二階を叙したということも出ているようである。
また浅井郡の人錦曰佐周與蒲生郡の人錦曰佐名吉等に志賀忌寸を賜ったということもあったようである(曰佐はおさで通訳の意)。
渡来人としては河内国錦部郡や若江郡錦部郷にも錦・錦部に関する一族が多く、百済族で錦部連を称した。錦部連乙麻呂や錦部連安宗、錦部連三宗麻呂などの名が見られる。錦部連のうち錦宿禰(錦部宿禰)を賜る者もあり、貞元二年、三善朝臣を賜る。
三善氏は漢の東海王の後裔とも、百済の速古王(近肖古王)の末裔ともいわれる。姓氏類別大観によると後漢霊帝の子が献帝、その子が東海王でその四代後が波能志でこの子孫が浅井氏、錦部氏、錦織氏とされる。
三善氏を称するようになった後も、旧姓の錦氏を称したようで三善清行の子が左大史を勤めた錦良助でその子が錦連行とされる。三善氏の人物として三善清継の娘で坂上田村麻呂の妻の高子、菅原道真に辞職勧告した学者で醍醐天皇に仕えて「延喜の治」を主導した宰相三善清行とその子浄蔵(京都一条戻橋の由来で知られる)、算博士として活躍した三善為長とその後継者三善為康、鎌倉幕府の初代問注所執事となった三善康信、越後三善氏の三善為教の娘で親鸞の妻の恵心尼などがいる。
三善康信の子孫町野氏は近江国蒲生郡町野から苗字をとったらしく「欄干輪に違い鷹の羽」を家紋としているという。蒲生といえば戦国大名蒲生氏郷が近江国蒲生から伊勢国松阪に移り、最後に会津と米沢を領有したことを考えると三重県に錦氏が多いということで蒲生と一緒に米沢に来たものか。
ところが能登鳳至郡町野庄の地頭になった三善氏が後に町野氏を称するようになった説もあり、あるいは越中越後の三善氏との関係も考えられる。三善為康は越中射水の出で、末裔の越中豪族三善一守(小浦山城主で小浦一守も称する)は能登畠山氏に仕え、上杉謙信に仕えて子の内匠を人質に出したという。一守はその後、佐々氏、堀氏に仕えて最後は能登に移住し、松原氏に改姓して子孫が前田家に仕えたという。上杉に人質を出したこともあり、上杉家に残った一族が錦氏を称して移住したことも考えられる。
三善一守 能登畠山氏七尾の歴史 こちらに興味深い記事も見つけた。
久能利氏は三善氏と関係があるかもしれない。ということは富来氏(富木・富城)もそうで、つまり久能利=九里の祖、九里太郎蓮忍入道ということになりそうである。金沢の九里氏、九里甚左衛門正貞もこの系かもしれない。
http://nanao.sakura.ne.jp/person/s-miyoshi_kazumori.html