前回の記事で、紀氏と田中氏との関係に触れていたが、12世紀初頭、紀頼清の子、その裔 慶清からの田中家、祐清からはじまる善法寺家が出現。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html
この田中氏は紀伊国にもいた「田中氏」であろうか?
そして近江国にもいた「田中氏」とも繋がるのであろうか?
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/80d03746ddda6c6096778448d0f2ed1c?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime
近江国の佐々木宮の「木村氏」が「紀盛宗女」から出ていることを考えると、紀伊国さらに遡ると「宇佐」にたどり着くのかもしれない。
その紀氏の祖である「武内宿禰」は、近江国「大嶋奧津嶋神社」「長命寺」「日牟礼神社」にも縁がある。
そして奥島に居たのが「紀盛宗女」のようである。(紀盛宗は熊野別当として同名が系図にも残っているが、私は同一人物かな?と思っている。)
・・・とすると、九里氏の古代が「神功皇后」に結びついているとなっても、不思議ではないと思う。
鏡・矛が発掘されている久里双水古墳、久里大牟田遺跡、久里天園遺跡、久里・中原氏、久利・清原氏、紀氏、と一列につながり、近江国に来た「紀氏」は木村氏・真野氏等を経て、後に「九里(くのり)」の地を預かることになって「九里氏」になったのかもしれない。
九州 末蘆国 古墳・遺跡のあったあたりの「久里」はもともとは、「九里」の漢字だったのを志州の公が「久しい」の方が良かろう~と漢字を替えたという経緯があったようだ。
この「紀氏」の動きが、久里・久利・九里のいた場所と合致すれば、この「くり三氏」は同族となるのではないだろうか?
鏡が渡って来たルート を もう一度考えると、何か出てきそうな気がする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%89%8D%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%9C%8B%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html
この田中氏は紀伊国にもいた「田中氏」であろうか?
そして近江国にもいた「田中氏」とも繋がるのであろうか?
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/80d03746ddda6c6096778448d0f2ed1c?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime
近江国の佐々木宮の「木村氏」が「紀盛宗女」から出ていることを考えると、紀伊国さらに遡ると「宇佐」にたどり着くのかもしれない。
その紀氏の祖である「武内宿禰」は、近江国「大嶋奧津嶋神社」「長命寺」「日牟礼神社」にも縁がある。
そして奥島に居たのが「紀盛宗女」のようである。(紀盛宗は熊野別当として同名が系図にも残っているが、私は同一人物かな?と思っている。)
・・・とすると、九里氏の古代が「神功皇后」に結びついているとなっても、不思議ではないと思う。
鏡・矛が発掘されている久里双水古墳、久里大牟田遺跡、久里天園遺跡、久里・中原氏、久利・清原氏、紀氏、と一列につながり、近江国に来た「紀氏」は木村氏・真野氏等を経て、後に「九里(くのり)」の地を預かることになって「九里氏」になったのかもしれない。
九州 末蘆国 古墳・遺跡のあったあたりの「久里」はもともとは、「九里」の漢字だったのを志州の公が「久しい」の方が良かろう~と漢字を替えたという経緯があったようだ。
この「紀氏」の動きが、久里・久利・九里のいた場所と合致すれば、この「くり三氏」は同族となるのではないだろうか?
鏡が渡って来たルート を もう一度考えると、何か出てきそうな気がする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%89%8D%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%83%BB%E5%9C%8B%E6%87%B8%E7%A5%9E%E5%AE%AE