宇佐周辺に思いを馳せた始めたばかりでまだ整理はついていないが、忘れてはいけないのでメモ代わりに書き記す。
富来
溝部
web情報には、
「鎌倉前期の左馬允俊朝の長男が溝部太郎秀俊であり、その弟が富来氏の祖・富来次郎朝忠であって、その子の「秀忠-長忠-忠虎(忠政)」と続いて、忠虎の子が延元元年(1336)時に足利尊氏を出迎えた富来雅楽助(弥五郎)忠茂となります。 」
とあった。富来氏の祖ということである。もしかすると富木氏の祖ではなく、国東半島の富来氏の祖という意味なのかもしれない。
溝部氏の記載のある文書で(東京大学史料編纂所データベースの中)一番古いもので建久にあった。詳細な名前はわからなかったが、この秀俊が建久に活躍し、宇治勢多でのことも関係するとすると、承久の乱あたりと思う。宮方で…と本にもあったので、符合する。
以下の本(大分県史)によると、大友氏を頼って…とあるので、これも符合するように思う。
とすれば、先に富来氏があって、そこから因幡国へ在庁官人として赴いたとも考えられるか。
そこで、地頭職も併せて補任されて「冨木(城)郷」とし、冨木(城)氏と名乗ったのかもしれない。
いろいろな可能性があると思う。
想像だが…↓
藤原秀郷流の小山氏か山内首藤氏の一族、あるいは宇都宮氏で宮仕えしていた誰かが、鎌倉から京へ、京で戦い敗けて、宇佐へ逃げ延びた。
紀氏の血も入っていたことから、宇佐八幡宮近くに郷の地頭職を補任されて「富来郷」の富来氏を名乗る。
宇都宮信房の祖母は益子氏で、紀氏である。この宇都宮氏は豊前宇都宮氏ともいわれ九州に勢力を持っている。
が、今の所承久の乱で宮方になった者は見つかっていない。細かに見ていくと、ひとりぐらいはいるかもしれない。
その後、経営手腕を買われ?(出納が得意であったとか。)因幡国在庁官人として赴任することとなり、地頭職も得て「冨木(城)」と名乗る。
大分県史 中世編 第1巻
宇治勢多の乱の際に戦死した俊親は、この俊通の曽孫に当たるという。
俊親の息俊孝も負傷してしまった。
乱後、あちこちを漂泊していて、大友氏を頼って下向し、のちに、大友家臣となった者に首藤氏がいる。
首藤俊親は俊通の曾孫とあった。伝承ではあるそうだが、名前の「俊」の字が通し字となっている。
この系に左馬允俊朝がいるような気がする。
富来氏と承久の乱で調べると、出てきた。富来次郎判官代! 誰だ!この人物!!
という事は、宇佐に行く以前から「富来氏」と名乗っていたこととなる! か、または、承久の乱以前に宇佐には関係があったことになる。
実は、石州にも「富来」という地名がある。
ここでは、土岐光行と共に同じ宮方として戦っている。糟屋氏も兄弟3人が宮方として戦っている。(有久、有長、久季)
とても気になる、判官代の富来次郎。
でこの地域があるか?分かりませんけど装飾古墳もないかな?調べてみます。南朝あたりでは九州との縁が出ますけど鎌倉はややこしいんでこちらは古代で探ってみます。そこから内陸への展開はひとまずスルーして港なり入り口を探してみます。
別件ですけど、私が関わる所には向という字が出てくる事が多いんですけど日向氏(ひなたし)が出てきましたよ。そちらの探求に関わる可能性あるようならと情報送っておきます。父の探求に家康さんにフォローして頂いてるようなんですけど江戸の初期のブレーンになりそうです。
けど父の方と富は接点多いんで両方からバランスとって探求してみますね。