石見国(出雲国もかぶる??)の久利氏は清原氏という。
鎌倉幕府の御家人であったという。
コトバンク「久利氏」
中世石見の国人領主。本姓は清原氏で,平安末期以後石見国邇摩(にま)郡久利郷を領し,久利氏を称した。清原氏と久利郷とのかかわりを示す史料的初見は,1063年(康平6)清原頼行を久利郷司職に補任した石見国司庁宣で,以後清原氏は久利郷をはじめ,仁満,雨(天)河内,佐摩各郷を領有した。清原(久利)氏は鎌倉幕府成立とともに御家人の列に加わり,あらためて久利以下4ヵ郷地頭職に補任されたものと思われる。中世の久利氏は佐摩氏,仁満氏などの1ヵ郷地頭を分出するとともに,本領久利郷においても赤波,市原,鬼村などの小地頭(一分地頭)を分出,これら庶子は久利惣領からの独自性をもって南北朝内乱に参加していった。
さらに、wikipediaの「清原氏」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%B0%8F
奈良時代後期の天平宝字8年(764年)敏達天皇の後裔である大原都良麻呂が浄原浄貞に改姓改名されたのが初めての賜姓例であるが[5]、早くも宝亀3年(772年)には大原真人姓に復した[6]。平安時代に入ると、延暦17年(798年)舎人親王の王子である三原王の後裔の友上王[7]・長谷王[8]が清原真人姓を与えられて臣籍降下し、天武天皇系の清原氏が現れる。
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さて、近江国御家人井口中原系図の舎人親王の裔にも「長谷」がいる。が、従5位上 讃岐権介となっている。
三原王の息石浦王、その石浦王の息に「長谷王」が見える。参議従四位上行左衛門督兼信濃守 (途中、讃岐権守の時代もある)
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長谷は文章生 長谷王は按察使、と文官と武官との違いもあり、別人ではと思う。
その長谷のほうは、中原真人でもある。また、甥「正基」に、改中原賜 清原真人とある。(875年)
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この久利・清原が九里につながるかどうかはわからない。
が、清原令望という出羽清原にも目を転じてみようと思う。
出羽清原氏は遠い存在と考えていたので、あまり調べていない。
上記の大原真人も、wikipediaで「敏達天皇の後裔河内王の子らが天平11年(739年)に大原真人の姓を下賜されたことに始まる」とある様に橘姓のようである。
同じくwikipediaに原氏流大原氏という「下総原氏の原清常の三男、大原常光がはじまり」の一族もおり、これも尾張二宮の入った「原氏」かも知れない。(??)
ともかく、今までと同じように「九里」からではなく、別角度の「久利氏」=清原氏から考えることにしてみようと思う。
あと面白い視点として、文人と武人とで確かに異なり系統に入りそうなんですけどこの辺りは個人的研究では両方ありそうに思います。教養があるからこそ強いというのはあり話ですし、家系的な体質としても継承されているので運動神経とか武道に適した素材の可能はあるように思います。で教養とか正義感があれば当然怖い役人の役目を果たせますし、一目置かれるので自然に敵わないから従うとかおそれられているから盾つかないとかもあります。これは下々から見た姿で多分本人たちは意識したりそれで圧力かけもしないはず。そういう育て方もされていそうに思います。まさに武士って感じの環境で育っていたりしたのでは?と思います。
ですがはたからみていたらそう見えないので目指す方々もいるのでしょう。そうすると名字は魅力的なりますよね。なのでありのままもところから変化を加えられた可能性があります。時代的にも家系とかへの執着が出てくる時代だと思うんで聖徳太子の頃の元の身分どうこうではなく実績に合わせた評価をされると困るのが出始めた時の対応策だったとも思います。で大抵はその後戻す行為も文献上にも出てきたりもしますけど後またそれがわかりにくくなるきっかけにもなります。名字な名前での人間への影響を知っていたのを悪用したとも思われますね。偉い人から頂いたら騒然断りづらいですけど、そこは当然今では自由判断で人権がありますので誰がなんと言おうとも自分で頂くべきかこのままでいくかは選べる世なので今後は安心です。臣下とか思えばもちろん光栄かもしれませんが、どう変化するかわかないならば貰わないで自分で決める方が安心ですよね。
蘇我氏と最近良くスポーツで出てくる石川氏の変遷ともう一つ文屋だったかなぁ?名前貰って困った方がいたような?久々に調べておきます。
大原ってもちろん地形的にも大きな原っぱなので各地にあるのはわかるんですけど、東京で地図見ていてもここ大原なんだあとか思う事が多いですしここは凄いって思う所にひっそりと残っている感じで思うのも探索しがいがありますよね。清原氏は注目ですし、現世でも野球選手だった清原さんが後ろ姿を見せてくれているので楽しみですね。特に誘惑とかで陥れられては困るんで身体的に強い方は酒と薬と女に注意は多分古代からも変わっていないように思います。また大が付く方々も昔から注目していましたけどスポーツでの活躍はかなり嬉しいです。常に自分に厳しい分揺らいでしまうと周りまで揺らいでしまうので動かないくらいでいてくれるとありがたいなあと思います。刑部とかそんな役目していた民族が出てくれるとみんな安全に平和に過ごせるんではないかな?刑と書いてオサ(カ)ですから長も関係して来そうには妄想では思っています。大と長が同じ意味合いならば大田と長田がもしやもしやですけど、個人的にはあり得ないとは思ってませんので今後も引き続き研究してみますね。
大田(おおだ)と長田(おさだ)、他田(おさだ)
と、なぜか「田」が「だ」となっています。
岡田「だ」・益田「だ」・ともかく、九里の周辺に「だ」「た」が多いデス。
方言と関係あるのでしょうか・・・
石見は「おおだ」です。
東京の区名にもあるのはおおたで濁らないので普通に濁らないかと思い込んでいましたけど、面白いのはその地によって違う事。群馬の太田もなんかもタだけどアクセントが違うんだったかな?妙に違和感感じた事があります。
清音と濁音だと個人的には濁音が好きですのでちょっと嬉しいですよ。どっちが古いのか?とか気になってこだわっていた時代もあるんですけど今はすっかり忘れていました。元は、阿蘇(アソ)と阿曽姫(アゾヒメ)だったかな?濁音の方を古いって仮定して色々と検証していました。阿多古もアタゴですので濁音にこだわりたい希望ですね。どちらにしても音だとしたら漢字は何でも良いんですよね、当てはめなので。地元の方が例え綺麗に聞こえなくても濁音でもそれが今まででありこだわりがあり繋がっているならば濁音応援したい気持ちです。江戸っ子は色々と良い風に漢字も変えたりイメージ良くするのが粋なのかもしれませんが、それでヒントが無くなってしまうのは本当辛い事ですよね。住所も町名も何丁目とかじゃあ本当にもったいないです。大原もそうですけど何丁目もなくひっそり残っている町の名前は消滅の危機を運良くまたその地の方が護ってきたはずなので贔屓して気になってあげて下さいね。
そうそう高麗福信さんが高麗って名字いただいてお返ししたのかなぁ?ってなんか聞いたんでこの辺りの周辺も同じような関係者が居そうに思いますよ。たしかに外国の縁はあるとは思うんですけど、肉体的精神的な強さってスポーツでも強い人の中でもちょっと育つか育たないか?は環境だとも思うんでね。渡来系で済ませないでもっと古くからの関わりを探したいんですよね。すると熊本にも繋がるように思ってます。熊本奈良群馬武蔵野で近江佐渡で南朝になると歴史が面白くなるとは思います。新潟鳥取でまた関東に江戸時代で繋がると嬉しいんですけどね。銀山の方とも気仙沼の方とも別件で調べていても連動してきそうにも思います。ゆっくりですね。