頭を整理してみようと思う。
富木常忍の母は千葉成胤娘(1185年生)、父は土岐光行(1180年代生)であると仮定する。
父が土岐光行となる可能性がある場合には、叔父になるか?と思われる富城中太蓮忍=九里太郎経久(1175年生)。其の経久の父か叔父は中原久経(1147年以降)母は不明であると仮定する。
久経の母は源義朝の妻となり朝長を産んだ後に離縁し、中原に嫁ぐ。波多野義通の妹という事なので秀郷流の中で過ごしたのではないかと思う。
その久経の父となった中原は近江国にご縁のあった人物であったのだろうと思う。
そのために近江国御家人井口中原系図に入れたのではないかと思う。
しかし、近江国御家人の系図の丁度良い位置には久経の名前は無い。
三左衛門事件で有名な中原政経しかり…である。
中原久経は九条家の、また中原政経は、一条家の家司であった。
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さて、本題はこれからである。
小山氏周辺で、近江国との関係があった人物は中原信房である。
「寒河尼の父八田宗綱」の、弟が宗房。
其の宗房の息か孫と言われる人物が宇都宮信房である。
此処に、新しい情報が入ってきた。
千葉氏のHPの中の宇都宮氏、八田氏のページである。
これからじっくりと読むが、ヒント満載!で、嬉しい。
上記のページに《『待賢門院庁下文』などに見える「主典代造酒正中原朝臣」は「女院主典代造酒正宗房」(『長秋記』大治四年七月十六日条)で、即ち中宮璋子院司(中宮大属)であった「中原朝臣宗房」》とある。
此の主典代という職には、中原政経もなっている。
【院政時代における 院領荘園関係申請雑事の処理形態 】 槙 道雄 著
の論文の中に、
《年預の主典代 うち、大江以平・中原基兼・中原政経などは院庁発給文書作者となっていたようである。》とある。
この大江以平は疋田以成の父では?と言われている。(藤原利仁流)
中原基兼は様々な活躍をした人物だが「主典代造東大寺判官中原基兼 」とある。
政経は三左衛門事件の後、大江氏の働きで許されたようであるが逼塞していたのか…後に近江国伊香郡で「政恒法師」がおり、同一人物ではないかと思っている。
…このように、中原氏の中の主典代という範疇に中原宗房も、中原政経も入っているのである。
中原宗房の兄宗綱の娘に寒河尼がいるので、小山氏とも近く、頼朝とも近く、更に大掾家ともつながりがある。
宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としている)