銘は、こちらの鐘に付いていたものと思い込んでいた。
この鐘には「仲原(中原)景経」の銘は無く、名前の記載があったのは、文永五年の鐘であった。😱
まずは、此処から始める。
ここから分かることは、富永庄の奉行人として「仲原景経」がいたこと。
比叡山延暦寺東塔が願主となり新日吉の神社に鐘を造ったということ。
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上記の景経の甥が九里の祖 経久=蓮忍入道=九里太郎なのだが、
「経久」であり且つ「蓮忍」という人物は、めったにはいないと思う。
年代が変わった事で当てはまらなくなる事、
また、新たな可能性は何かを考えようと思う。