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越中国の宮崎庄と鹿嶋神社、中原氏とのつながりが見えてきたか。。

2016-09-09 | 中原氏バラバラ情報

越中国宮崎荘にあった【鹿嶋神社】はweb情報によると「治承年中(1177-81)朝廷からの奉幣、慶長10年(1604)前田氏の祈願所になつた。」とある。

1177年、宮崎太郎は45歳の時である。

宮崎庄について調べると、

【国名】 越中
【郡名】 新川
【荘園名】 宮崎庄
【フリガナ】 ミヤザキ
【参考市町村】 下新川郡朝日町
【出典】 米良文書
【地名辞典】  荘園志料=なし・角川地名=年月日不詳、小田名字在所注文案、宮崎の庄に小田姓の者ありという=新川郡の内、越中越後の国境近く、北陸街道に沿う
【備考】  荘園の実態を示す史料なし


宮崎荘に小田姓。怪しい!しかも米良文書!→これは熊野との関係の傍証となるのではないだろうか。

米良氏(紀伊国の豪族)

紀伊国熊野地方の豪族。那智山の神職・社僧・御師を務め、歴代幕府や諸大名の御用を務めた。2系統有り米良湛知の後裔は目良氏に改姓し新熊野(いまくまの)神社(現・京都市東山区今熊野椥ノ森町)別当職を代々務めた。

紀伊国の米良氏に伝来した『米良文書』は、南北朝時代から江戸時代にわたる朝廷、将軍家、その他の武家からの書状等の多数の文書から成る文書群であり、重要な史料とされている。


そして小田氏(米良文書の小田氏とは年代が離れているが…小田知家がいる。)

小田知家=八田知家で、八田といえば、wikipediaよりそのままコピーを添付すると、以下のようになる。、
1086年に生まれている。


『八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。
八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる。

藤原兼房の子兼仲の子で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085年)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。
この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。
応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。

娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。』

~~~*~~~

そして、八田宗綱の父藤原兼仲、祖父は兼房となり、祖父兼房の母は源扶義の娘であり、源扶義は近江国佐々木氏の佐々木成頼の父である。
宮崎庄の小田氏がどのような人物かは、これだけではわからないが、調べてみる価値はありそうである。




常陸国の鹿島神宮のwebより気になる箇所をピックアップしてみた。

【鎌倉時代に入り、源頼朝により常陸大掾氏一族の鹿島氏が惣大行事に任じられた。それまで神職の補任権は基本的に藤原氏が担っていたが、この武家の進出によりその影響下からは離れることとなった。】

大宮司
「だいぐうじ」。神宮の最高責任者。
【古くは中央の大中臣氏から補任されていたが、長元年間(1028年-1037年)から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿島氏)が交互に務めるようになり、建長年間(1249年-1256年)以後は中臣氏が世襲した(近世に塙氏を称する)。】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE




この宇都宮・中原氏周辺は、私の調べものに何度も登場している。が、難しく込み入っているため、一度は記事を書き、その後削除している。

再度挑戦したいと思う。

グルグルと巡りながらも、進展しているような気もするこの頃である。










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