公雅の息致頼(むねより)の姉か妹に平忠常の妻がいる。
忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府の御家人となる上総氏、千葉氏が出た。
忠常の息常将の妻が中原氏であろうと思われる「天女伝説」があり、その息が常長で、
前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされる。
戦後は上総国大椎に館を構え、さらに下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。
ココや忠常が源頼信の家人であった(『今昔物語集』)事の情報をプラスしてみると、源氏にもさほど遠くない。
致頼はwikipediaによると、「寛弘(1007年)4年8月に藤原伊周・隆家兄弟が藤原道長暗殺を計画し致頼に命じていたという噂が流れていたとある、ように、藤原氏の近くにも居た。
また、致頼の姉妹が既に薨去していた伊周・隆家の父藤原道隆の家司の有道惟広の室であり、その息子で致頼の甥に当たる有道惟能が伊周の家司だった事から伊周らはその繋がりで致頼と通じ接触した可能性もある。…」という事で、藤原氏の家司であった有道氏とのつながりもあったようである。
有道氏も「藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、児玉郡を開墾した官人であると伝えられ、子息は武蔵七党の一角を占める武士団である児玉党(児玉氏)の祖である児玉惟行。」という経歴であり、長田氏の祖も「丹党」かも知れないし、、、
武蔵国には秘密基地のように京から流れてきた武士が徒党を組んで生きる場所があり、結構な人数がいた事になりそうである。
どのような場所かを調べてみた。
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下の地図に注目していただきたい。
土師神社のぐっと上の印(「佐野のわたし」付近)は「片岡氏」が拠点としていた上野国片岡と思われる。
土師神社の近くには丹荘とあり、丹党がいた場所でもある。
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意外な展開になってきた。
丹党であった可能性のある「長田氏」と「片岡氏」のいた片岡とが近い!
もう一度、片岡氏の系図をよく見ると(大和北葛城郡史)161頁
片岡為利は源頼義に従い奥羽に戦い功あり、伊賀守に任ず 永保元年に卒す 91歳とある。(990年生まれとなる)
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長田氏の先祖は源頼信に仕え、片岡氏は源頼義(頼信の息)に従い…
難しいので、この周辺の本を読んでみたい。
万葉集の昔の悲劇を伝える歌です。
さて、今、前九年を調べていました。不得手な分野なので、もしかしたらお聞きするかも知れませんが、その時はどうぞよろしくお願いいたします。
今日は、28℃と涼しく(こちらの感覚です)小雨も降り、過ごし易いです。
拙句
貞任の捨て台詞かな秋の雨
コメントありがとうございます!
これから、勉強します!「前九年の役」
それよりも後年ではありますが‥
平致頼が藤原保昌と共に四天王として活躍しているようです。
===*===
麒麟が来る、ですが、
足利義昭が一乗谷の朝倉家を訪れた際、門番をしていたのが九里です。ドラマにちらっと出てこないかな?と期待しております。
(出番はまだまだ先でしょうが…)
佐野のわたし、は和歌山新宮にもある様です。
どちらなのでしょうね。
あそこが上野国の片岡なんですね。びっくりです。
というのも藤岡の方が歴史的に面白そうかと思いましたが川の流れがある場所は奥が深そうですよね、古代の水運とまた水神との縁も。4cの古墳もありましたし、定家の神社もあったようですが、庚申の信仰も結構残っていたので縁ありそうな地域だと思いますね。
別件で猫(根子)も調べているので地図に根小屋って地名も気になっています。天小屋根さんとも縁がありそうなのもあり文字だけでもこの辺りは気になる地域です。
多胡碑の碑文には多治比さんの文字もありますし、確認したら片野郡で片岡郡って解釈されてますね。鳥肌もんです。気になった場所は、放光神社でした。根小屋の川の対岸に定家神社があり庚申塔がありそこから内陸行くと放光神社です。川から上陸する道ありそうに思いました。山ノ上碑との関係もありそうで黒姫刀自って方が出てくるんで黒の関係の姫さんが絡むだけでもワクワクしました。山ノ上碑の碑文はまた私が滋賀県をイメージしちゃう建(タケル)とか新川(シンカワ)とかタタミヒコみたいな文字も多いんで近江との接点ないか?と何かきっかけがあれば掘ろうと思っています。風が吹いてくるまで。
あと羊も昔空飛ぶ羊伝説にハマっていた時期があり、それがトリって事もありそうには思います。
スクネも足尼だし、地図みたら多治比に似たような文字の多比良って文字も出てきます。平も多比良だと音と同じ文字数で好きですから、今度は多治比と平の関係も気になってきます。
どうしても行かないと一生後悔すると思い行きましたけどPASMOが使えないなど色々とドキドキしましたよ。
こちらと関係する地域でびっくりしました。
文字を持ちまた燃えない物で残している凄さ、日本の各地にまだまだ埋もれている物がありそうですよね。
近畿と関東の接点はだいぶ見えてきてますので福島東北そして北海道もどんどん考古学やその地域の方の研究で見えてくるといいですね。
でそれにより自然の脅威からの防災のヒントも出てくると思いますよね、水神さんの場所とか川の痕跡などでも。神社仏閣はそう動いてはいないので。
過去の歴史の研究が未来に役立つといいですね。
「過去の歴史の研究が未来に役立つといいですね。」
本当にそのように思います。
同じ過ちを起こさないためにも。
でも伝なのでどこの古墳から出たのか?おそらく不明でしょう。この辺りの古墳探そうと思ったら神社が家隆神社は高い場所っぽいので気になりました。
ハサミは金属ですし、製鉄で使われたようなイメージで思っています。もっと違う所でも鋏出てくると凄いんですよね。祖母と縁ありそうな達磨寺とも佐野のわたしから渡って近付いた方向なのでワクワクが止まりません。
高崎の達磨寺の七草粥の文化も奈良もお粥と接点があるといいなあ。お粥は健康にも良さそうなので探っておきますね。
なるほど!
ハサミは蟹を見て気が付いたのかもしれませんね!
そう考えると、飛行機だって鳥の羽。
舟だってイルカの形だったかもしれないです。
薬も昔からの漢方だったり、木の実だったり、いろんな在る物からヒントを得てつくっているらしいですし。
ヘッドフォンだって、貝殻からのヒントだったり?
何かしら、自然の物からヒントを得ている物ですね~!