聖徳太子と関係するといわれている景教はいつ頃日本に入ってきたのかを考えるに
中国では635年に入り、638年伝道を許可され、とある。
(聖徳太子:574年生-622年没)
となると、
聖徳太子が信じていたのがもしも仏教ながらキリスト教的な宗教となると、ペルシャ人アラホンよりも早く伝わってきた事になるため、中国経由ではない可能性を感じる。
wikipediaより↓
キリスト教ネストリウス派の中国での呼称。〈大秦景教〉とも。635年ペルシア人アラホン(阿羅本)により伝えられ,638年伝道を許可され,諸州に寺院(波斯寺,大秦寺)が建てられた。〈大秦景教流行中国碑〉(781年建立)は盛行の証。845年武宗の禁断により衰退,元代には教勢を回復するも,明代に至って消滅した。
もっと間を経ずに、ダイレクトにキリスト教ネトリウス派として入ってきたのではないだろうか?(しかし、何処かで仏教とMIXされるはずなのだけれども…ここが納得いかない…)
もしくはネトリウス派や景教との関係はなかったか。
「蘇我氏はシルクロードから渡来した」ー飛鳥文化のルーツはメソポタミアにあったー
久慈力 著作
wikipedia ネストリウスより ↓
431年にコンスタンティノープルの大主教ネストリウスがエフェソス公会議で異端とされて破門された。この時、彼の説を支持する者たちが東方へ渡り、そのうちの一派が5世紀に当時サーサーン朝ペルシア帝国の領土であったメソポタミア(現:イラク)にて布教したのが今日のアッシリア東方教会の始まりであると説明されることが多い。
「ネストリウス派」の母体となったシリア語キリスト教徒コミュニティーは2世紀中に既にパルティア領内に成立し、公会議の動向と関係なくサーサーン朝内でも存続・拡大しており、この教会共同体が5世紀にネストリウスと同じ立場に立つ人々の受け皿になったものである[4]。
事実、ペルシア領内のキリスト教教会はネストリウス問題が起こる前の410年にセレウキア・クテシフォンの主教がサーサーン朝皇帝ヤズデギルド1世の庇護のもと開催された会議で「東方の全キリスト教徒の長」の称号を与えられ、426年にはアンティオキア総主教の管轄から外れ、その長が「カトリコス」(のちに「総主教」)を名乗ることが決議されている[5]。
弓月国は、650 年頃に滅亡するまで景教徒(ネストリウス派キリスト教徒)の拠点であった。との情報もweb上の論文紀要にあった。
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蘇我氏がメソポタミアの文化を持ってきたとすれば、ネストリウス派の教えも共に入ってきたとも思える。
その時、だったかもしれない。
ペルシャ人も帰化して働いていた日本である。しかも聖徳太子の母にもハシが付いている。
穴穂部のハシヒト(間人)皇女となっている。この間人は「破斯」の「ハシ(ペルシャ)」なのではないだろうか?
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG05H37_V01C16A0CR8000/
奈良市の平城宮跡で出土した「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、ペルシャ人の役人とみられる「破斯清通」という名前があったことが5日、奈良文化財研究所の調査で分かった。「破斯」はペルシャ(現在のイラン付近)を意味する中国語の「波斯」と同義で、国内の出土品でペルシャ人を示す文字が確認されたのは初めて。外国人が来日した平城宮の国際性を示す史料となりそうだ。
同研究所によると、木簡は1966年、平城宮跡東南隅の発掘で出土した、役人を養成する「大学寮」での宿直勤務に関する記録。当時は文字が薄いため名前の一部が読めなかったが、今年、赤外線撮影したところ、「破斯」の文字を判読できた。
「大学寮解 申宿直官人事」のほか、下部に、特別枠で任じられた役人を意味する「員外大属」という役職名もあった。
続日本紀には736年、遣唐使が連れ帰った「唐の人三人、波斯一人」が聖武天皇に会ったと記されている。その後、この「波斯人李密翳」に位を授けたとあるが、以降の動向は分からないという。
研究所の渡辺晃宏史料研究室長は「国際的な知識があり、役人として登用された可能性がある。破斯清通が、李密翳やその関係者と考えても年代的におかしくはない」と話している。
来日した外国人には、唐招提寺(奈良市)を開いた唐の高僧・鑑真や、東大寺の大仏開眼供養(752年)を行ったインド僧・菩提僊那がいる。また朝廷に仕えた唐の皇甫東朝の名前が墨書された土器も奈良市の西大寺旧境内から出土している。
木簡は同研究所平城宮跡資料館(奈良市)で開かれる「地下の正倉院展」(月曜休館)で11月1~13日まで展示される。〔共同〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%B4%E6%96%AF%E6%B8%85%E9%81%93
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また、バラバラな情報だが、蘇我氏が古くはペルシャからネストリウス派の教えを持ちこんだ、とも考えられて興味深い。