中原成行とその周辺をもう一度、調べてみたい。
【成行】を起点としていきたい。
その起点より5代前に俊興(天慶二年939三月住近江国伊香郡)、その俊興の3代前に長谷〔文章生 従五位上 母摂津高向利男、仁寿元年851九月 長谷(長宗…という名になっている)兄弟八人が中原真人姓を賜っている〕長谷の名は上表文にみえず、公卿補任の記亊により長谷が延暦十七年に賜姓したことがわかるそうだ。
さらにさかのぼると
弘宗王~豊前王~栄井王~船親王~舎人親王になるのだが、その舎人親王あたりにヒントがあるようにも思えるので、書き出してみたい。(wikipediaより)
〔舎人親王〕
父:天武天皇
母:新田部皇女(天智天皇の娘)
大夫人(淳仁即位後に追贈):当麻山背(当麻老の娘)
次男:三原王[3](?-752) - 清原氏の祖
七男:大炊王[4](淳仁天皇)(733-765)
妃:当麻氏
三男:船王[4]
生母不明
長男:守部王[5]
四男:池田王[4]
五男:三島王[6]
六男:三使王[7](?-760)
男子:御浦王[8]
男子:厚見王
女子:室女王(?-759)
女子:飛鳥田女王(?-782)
ここで、清原氏が生まれており、江州中原氏と同じ系から生まれたことが分かる!
また、wikipediaでは、船王と船親王は同一人物になっているようだ。
縁のある大宰府の歴史年表を参考にさせていただくと以下のようになる。
758
淳仁天皇、太宰帥船王と大弐吉備真備に勅する。
「よろしくこの度の状勢を理解して、予め優れた策を建て、たとえ禄山が来寇しなくても、準備は怠ることがないようにせよ、立案した上策と準備の 詳細は一々具体的に記録して報告せよ」 続日本紀 天平宝字二年十二月十日の条
759
太宰府、国防上の4件の不安(辺戍の不安)を言上する (博多という地名が文献上、はじめて登場する)
続日本紀天平宝字三年三月二十四日の条
太宰府に行軍式(軍事行動に関する規程)を作らせた。新羅を討とうとするためである
続日本紀天平宝字三年六月十八日の条
太宰帥・三品の船親王を香椎廟(香椎宮:仲哀天皇を祀る)に遣わして、新羅を伐つ事情を奏上させた
続日本紀天平宝字三年八月六日の条
…ということで、太宰帥(ソチ)の船王=船親王 であると認識してもよさそうである。
次に、
764年(天平宝字8年)藤原仲麻呂の乱で連座の罪に問われ、隠岐国に配流となった。なお、この時船王の子である葦田王も三長真人の姓を与えられて臣籍に落とされ、丹後国に配流となっている。
☆船王は隠岐国へ息子の葦田王は丹後国へ配流となる
、
☆三長真人(葦田王)は清原姓になり、高市皇子からは高階姓になる。
(40)天武天皇
(大海人皇子) ~ 高市皇子 ~ 長屋王 ~桑田王~磯部王~石見王~(高階)峰緒〔高階氏へ〕
高市皇子の子ども
父:天武天皇
母:胸形尼子娘(宗形徳善の娘)
妃:御名部皇女
男子:長屋王(684?-729)
妃:但馬皇女?
生母不詳の子女
男子:鈴鹿王(?-745)
男子:門部王[5]
女子:山形女王(?-745)
女子:河内女王(?-779)
……
舎人親王(崇道尽敬皇帝)~船王~葦田王~豊前王~弘宗王~中原(兄弟八人)真人〔江州中原氏へ〕
また、
舎人親王からは 三原王(御原王)~ 小倉王~ 夏野(清原姓)
三原王の子ども
男子:和気王(?-765) - 子孫は清原氏(典薬寮官人)
男子:丹波王
男子:岡細川 (細川王)
男子:山口王 - 子孫は清原氏(下野清党)
男子:長津王
男子:小倉王 - 子孫は清原氏
男子:石浦王 - 子孫は清原氏
女子:弓削女王
女子:小宅女王
ということで、中原氏のすぐ近くに清原氏・高階氏がいることが分かる。
ちなみに〔中原長谷〕を調べても出てこないが、清原真人長谷は、出てくる。
臣籍降下(web情報)から部分を拾うと、以下のようになる。
延暦十七年(七九八)十二月二十四日 友上王 清原眞人 舍人親王裔に對する賜姓清原眞人の初例。清原眞人長谷と同時に賜姓されたと考えられる。よって、友上王と清原眞人長谷とは近親(兄弟または同一人)であろう。 『日本後紀』延暦廿三年六月甲子
延暦十七年(七九八)[十二月二十四日歟] (清原眞人長谷) 舍人親王の三世孫。
御原王の孫。石浦王の二男 清原眞人 友上王と同時に賜姓されたと考えられる。あるいは、友上王が賜姓の後、清原眞人長谷と改名した可能性もあるか。 『公卿補任』天長八年
…と今日は、ココまで。
【成行】を起点としていきたい。
その起点より5代前に俊興(天慶二年939三月住近江国伊香郡)、その俊興の3代前に長谷〔文章生 従五位上 母摂津高向利男、仁寿元年851九月 長谷(長宗…という名になっている)兄弟八人が中原真人姓を賜っている〕長谷の名は上表文にみえず、公卿補任の記亊により長谷が延暦十七年に賜姓したことがわかるそうだ。
さらにさかのぼると
弘宗王~豊前王~栄井王~船親王~舎人親王になるのだが、その舎人親王あたりにヒントがあるようにも思えるので、書き出してみたい。(wikipediaより)
〔舎人親王〕
父:天武天皇
母:新田部皇女(天智天皇の娘)
大夫人(淳仁即位後に追贈):当麻山背(当麻老の娘)
次男:三原王[3](?-752) - 清原氏の祖
七男:大炊王[4](淳仁天皇)(733-765)
妃:当麻氏
三男:船王[4]
生母不明
長男:守部王[5]
四男:池田王[4]
五男:三島王[6]
六男:三使王[7](?-760)
男子:御浦王[8]
男子:厚見王
女子:室女王(?-759)
女子:飛鳥田女王(?-782)
ここで、清原氏が生まれており、江州中原氏と同じ系から生まれたことが分かる!
また、wikipediaでは、船王と船親王は同一人物になっているようだ。
縁のある大宰府の歴史年表を参考にさせていただくと以下のようになる。
758
淳仁天皇、太宰帥船王と大弐吉備真備に勅する。
「よろしくこの度の状勢を理解して、予め優れた策を建て、たとえ禄山が来寇しなくても、準備は怠ることがないようにせよ、立案した上策と準備の 詳細は一々具体的に記録して報告せよ」 続日本紀 天平宝字二年十二月十日の条
759
太宰府、国防上の4件の不安(辺戍の不安)を言上する (博多という地名が文献上、はじめて登場する)
続日本紀天平宝字三年三月二十四日の条
太宰府に行軍式(軍事行動に関する規程)を作らせた。新羅を討とうとするためである
続日本紀天平宝字三年六月十八日の条
太宰帥・三品の船親王を香椎廟(香椎宮:仲哀天皇を祀る)に遣わして、新羅を伐つ事情を奏上させた
続日本紀天平宝字三年八月六日の条
…ということで、太宰帥(ソチ)の船王=船親王 であると認識してもよさそうである。
次に、
764年(天平宝字8年)藤原仲麻呂の乱で連座の罪に問われ、隠岐国に配流となった。なお、この時船王の子である葦田王も三長真人の姓を与えられて臣籍に落とされ、丹後国に配流となっている。
☆船王は隠岐国へ息子の葦田王は丹後国へ配流となる
、
☆三長真人(葦田王)は清原姓になり、高市皇子からは高階姓になる。
(40)天武天皇
(大海人皇子) ~ 高市皇子 ~ 長屋王 ~桑田王~磯部王~石見王~(高階)峰緒〔高階氏へ〕
高市皇子の子ども
父:天武天皇
母:胸形尼子娘(宗形徳善の娘)
妃:御名部皇女
男子:長屋王(684?-729)
妃:但馬皇女?
生母不詳の子女
男子:鈴鹿王(?-745)
男子:門部王[5]
女子:山形女王(?-745)
女子:河内女王(?-779)
……
舎人親王(崇道尽敬皇帝)~船王~葦田王~豊前王~弘宗王~中原(兄弟八人)真人〔江州中原氏へ〕
また、
舎人親王からは 三原王(御原王)~ 小倉王~ 夏野(清原姓)
三原王の子ども
男子:和気王(?-765) - 子孫は清原氏(典薬寮官人)
男子:丹波王
男子:岡細川 (細川王)
男子:山口王 - 子孫は清原氏(下野清党)
男子:長津王
男子:小倉王 - 子孫は清原氏
男子:石浦王 - 子孫は清原氏
女子:弓削女王
女子:小宅女王
ということで、中原氏のすぐ近くに清原氏・高階氏がいることが分かる。
ちなみに〔中原長谷〕を調べても出てこないが、清原真人長谷は、出てくる。
臣籍降下(web情報)から部分を拾うと、以下のようになる。
延暦十七年(七九八)十二月二十四日 友上王 清原眞人 舍人親王裔に對する賜姓清原眞人の初例。清原眞人長谷と同時に賜姓されたと考えられる。よって、友上王と清原眞人長谷とは近親(兄弟または同一人)であろう。 『日本後紀』延暦廿三年六月甲子
延暦十七年(七九八)[十二月二十四日歟] (清原眞人長谷) 舍人親王の三世孫。
御原王の孫。石浦王の二男 清原眞人 友上王と同時に賜姓されたと考えられる。あるいは、友上王が賜姓の後、清原眞人長谷と改名した可能性もあるか。 『公卿補任』天長八年
…と今日は、ココまで。