以前、金田氏のHPを見て、何処かつながりがありそうであると思っていたのだが見いだせなかった。
もう一度、上総氏に興味が出てきた今、挑戦してみようと思う。
近江国の近江八幡金田庄のすぐ近くか、当時はその中にあったかもしれない「九里」なのである。
今回、千葉氏さんのHPと上総金田氏歴代記HPとを同時並行させながら、気になる点を残しておきたいと思う。
まず、金田氏のこちらを!
http://www.hatamotokaneda.com/kazusakaneda-history/kk001/kk1a-bosoheishi.html
上総氏妹が尾張国原高成に嫁いだ後の事、上総広常が誅され、その弟金田頼次も捕らえられ、幽閉先で歿してしまう。
その後、上総広常の事は誤解であったとわかったにもかかわらず、領地はおおかた返されなかったようである。
『金田頼次の子孫は、金田頼次が幽閉され時に無念の死を遂げたことを知っている千葉常胤によって生き残ることができた。その後、千葉宗家とともに歩んだことで千葉大系図に金田氏(蕪木氏を含む)の記録が残り、今日子孫である我々が先祖のことを知ることができるのである。』
現在の金田
上総一之宮玉前神社 の近くに「金田」が二つ見える。
一之宮玉前神社
「上総権介広常と呼ばれたことから、千葉氏と区別する為に広常の一族を上総氏と呼ぶが、当時も上総氏と呼ばれていたか疑わしい。
上総国一ノ宮玉前神社の顕彰碑において平廣常と記載されており、本当は平廣常と呼ぶのが正しいのかもしれない。」
上総国一ノ宮玉前神社の顕彰碑において平廣常と記載されており、本当は平廣常と呼ぶのが正しいのかもしれない。」
平広常は、この一之宮玉前神社付近の居住していたようである。
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下の方の奥州千葉氏の出自について、を読みますと「上総介広常の甥である相馬貞常の子・角田太郎親常」が胤親と改名しているようであること、
「相馬常清の孫・角田太郎胤親(角田親常のち胤親)には、10人の子があり、上総の小櫃川・養老川中流域にそれぞれが拠っていた。」とあり、また、
「また角田親常の父相馬貞常に関して、野口実の【中世武士団の研究】に相馬貞常の子孫に畔蒜庄内の地名を名字とする者が多いこと、「神代本千葉系図」の貞常の傍注に「上総介」とあること」とあるそうで、
つまり、千葉の九十九里浜側から中ほど・左側(内房側)に移動して隠れ潜んで暮らしていた人もいたのかもしれない。
そのために金田氏のように九十九里浜側にも、内房側にも地名が残っているのかもしれない。
(これから調べるのだが…)
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(上総)平広常の妹は原高成の妻、娘は平時家の妻、二人目の娘は加賀美長清の妻である。
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富木常忍の母が、もしも下総局であったなら、共に頼家・実朝が生まれる際に介錯役を仰せつかり、働いた同志である。
(因幡国国衙在庁官人となっていた際には、安徳天皇陵にごく近い場所に住んでいたことがわかったので、平時家とも近い関係であったかもしれない。)
更に、加賀美(小笠原)長清の七男大井朝光の母親が平(上総)広常の娘であり、
大井朝光の娘は佐々木義清の孫にあたる「隠岐時清」(佐々木時清)の母となるのである。
隠岐時清! まだ未知だが、加賀美長清の妻であった上総局はそこにつながっている。
小笠原氏と上総氏と佐々木隠岐氏
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更に金田氏・角田氏が関わるような気がしている。
千葉成胤の母親も平広常の娘であったことがわかった。
で地図で見つけた長楽寺という地名が気になってしまって。楽と付くとある意味なんか生活するスタンスのような人間に強いる事ない自然や環境との付き合い方を持った民族に絡みそうに思ってます。
で古墳で考えると能満寺古墳っていう前方後円墳の向きがとても好きなんですよね。一説では4世紀でかなり早い時期の前方後円墳は興味あります。円墳は方位を意識していない民族ですが、前方後円墳は明らかに意識して方位が分かるはずですからね。それが東西だと太陽の動きにも見える方向を意識していそうですね。玉前さんには日の出みたくていつか行こうともう10年くらい行けてないです。地図上でも地形からここ行きたいと思ったら玉前さんの文字。駅からは内陸で行きにくい場所みたいですけど行きたいなあと思いましたよ。千葉県の古墳紹介では熊野の文字はありましたね。
そして以前木更津から君津通って鴨川行った際に気になった場所は、太田山なのか?方向が違うようですが地図からは気になってみたら金の鈴って博物館ありました。またここが前方後円墳で時代が違うようですが鈴が出土していまして出て来ている物が私が最近出会った群馬の観音塚の鈴と同じような物が場所違いで存在するって凄いですよね。近くには長楽寺もこっちにはお寺があるし。4〜6世紀で千葉相当最先端だったとも思うし群馬との交流と出土品から宗像とも関わる民族がいた気配あります。奈良で行くと昨日は生駒と桜井は気になりますよね。木更津は古墳の向き違うならば少しづつ意味合いや民族が違ってくるのかもしれませんが、相撲の土俵と一緒で作れる方は経験の継承で出来る方しか出来ないはずです。なので同じ民族が関わっていただろうとも思うわけですよね。関西との完成度なども比較したら面白そうには思いますね。木更津の辺りは夕陽かな?鋸山は富士山も見えましたから山の信仰も少し入って来そうには思います。けど個人的には能満寺古墳が素朴で良いと大原寄りであの辺りがあってこそのその後の時代とも思います。同じ場所ですが時代が違う見方でヒントになればと入れておきます。明日香では鎌足の産湯井戸の神社まで行って来ましたけど、鎌足のお母様がこちらの大原の方ならば港町大原での色んな体験を奈良で生かせそうにも思うんですよね。お母さんは大原夫人ってイメージでしたけど小原夫人と大伴夫人よりもなんか繋がるんですけどね、久々飛鳥調べてみます。鎌足の文字は君津から鴨川でも出てきていたし、伝説にしても関係あったとすると理由は鎌足じゃないにしてもなんなのか?古墳の出土品で考えたいです。
色んな繋がりは古代からの繋がりの可能性も十分考えられますが、なんせ時代的に近い方が分かりやすいとも思いますよね。どこの時代から掘ると出てくる物が出やすいのか?鈴は他で出ていないのか?を含め千葉って凄いという認識をたくさんの方が持って頂けるといいですよね。地層もそうですけど、ブラタモちょっと見逃したんですが鋸山も出てきましたよね。地形への興味と研究とが生活に役立ち危険からの回避方法に繋がるといいですよね。このプログに出て来るような方々はいっぱい学んでいた知識を活かしていたとも思います。
スダという音も色々妄想しますよ。自分の探求に役立ちそうです、ありがとうございます。
コメント、ありがとうございます。
相撲のことも出ておりましたが「角力(すもう)」の「角」がまさに「角田(すだ)」の「す」なのです。
角田胤親は千葉胤正の婿養子となっていたようですが、斎藤兼綱の次男も「墨田(すだ)」というそうです。高橋氏でもあります。
そのあたりはまだ調べている最中でもあります。
相+撲よりも角+力の方がイメージ良い感じしますね。
結構漢字で騙される事が多いですよね。
相撲の神さんについても探求しておりますが、当時は蹴る事もしていたと知識ある方にも聞いています。とするとですよ、蹴鞠系ともなんらかの接点があるはずです。
まあ経験上の事でなんの根拠もないですが、生きている人間の縁で出てくるとちょっと人間ウォッチも楽しくなります。
当麻蹴速さんは野見宿禰さんにやられた事で奈良の土地は取られちゃったんだっけ?当麻でいくと中将姫とか南家とかだし、野見でいくと野城・乃木あたりも気になるのでして赤と青なんですよね。両方探求しています。
墨も気になりますが隅田八幡でスダというのも気になりましたよ。
角については牛もイメージしちゃいますが、伊豆方の島で牛相撲父に連れて行って貰ったような?相撲埴輪は大阪と群馬ですよね。すまうとすると住まうと変換出て来ましたけど、元は大地の神への儀式で力士も牛も依代でしょう。そう思うと神事に関わる一族が関わるはずですし、そうじゃないと大地からの知恵も継承されません。自然の脅威も日々激しくなってきますから、得意な方々が出て来て日本の立て直ししてもらわないと困ります。土俵を作る方法も治水にも古墳作りにも役立っていた時代もあったならば思い出せる方出てくるといいですよね。安閑天皇あたりの千葉と近畿の歴史とがもっと見えてくるといいですよね。誰か調べてくれるともっと近い時代も見えてくるんでしょうね。
九里さんは水神さんなので確実に重なる立地で共存なり提携なりもしかしたら同一で活躍していた時代があるのでしょうね。