九里 【九里】を探して三千里

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中山忠親の周辺 中原祐安 平時家 上総広常 大江親広 

2019-10-11 | 雑記

【中山忠親家】は、中原(清原)祐安が家司をしていた。

この中山忠親の周辺を探ると意外なことに東国とごく近い関係であった。
中山忠親に嫁いだ妹が平時家にいたのである。

なんと言っても驚いたのが、次男時家が訳あって上総に流され、上総国の有力武士である上総広常に気に入られて婿になってしまったことである。

平時忠が能登配流で済んだ背景にも、このことがあったためと思われる。
頼朝自身も、この平時家が気に入っていたようである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E5%AE%B6

平時家、1179年に上総に配流され、1182年に頼朝に仕えることとなる。

そうなると、この時家にも家司として中原氏がいたのではないかと思う。
鎌倉時代の初期に東国にやってきていた【中原氏】

江州中原氏のなかの【中原経久】と下記の文書の中の経久が同じ人物なのかどうかはいまだにわからないが、そのような機会がないと、わざわざ近江国から東国へはやってこないのではないだろうか。しかも、出身は近江国伊香郡である。



…という想像から、ことを進めると、
この中原氏も東国に来てすぐに頼朝の近くに配されるのもうなづける。

限られたメンバーなので、大江氏、三善氏、清原氏とも京からやってきたグループとして協力関係を築いていたとも思われる。

その中から出身地と地理的に近い者を選び、国衙在庁官人・地頭等として地方(関西方面)派遣されたのかもしれない。

===*===

吾妻鑑
建久五年(1194)九月大廿三日庚戌。但馬國 多々良岐庄①者、源宰相②が領所也。

而るに熊野鳥居禪尼〔故左典厩が姉公〕日者強ちに彼の邊を所望の事、他に異なる③之間、
地頭補任の御下文を遣は被る。

但し限有る領家の乃貢、課役等に於て者、懈怠有る不可之由、今日御消息を遣は被ると云々。

参考①多々良岐庄は、兵庫県朝来市(あさご)多々良木(旧朝来郡朝来町多々良木)。
参考②源宰相は、兼忠(1160-1209)、中原親能が乳母の夫。朝日日本歴史人物事典から。
参考③他に異なるは、他人ではないので。別格なので。

源兼忠(村上源氏)の乳父母の夫方として中原親能が仕えていたのだ。

===*===

西園寺家の家司は橘氏であった。
例えば橘知宣・知茂などがいる。
同時代1200年代初期に江州中原氏の経任が橘氏と改名し【橘次経任】となったが、この西園寺家の家司であった橘氏と関係があったようにも思えるのだ。

なぜならば、この橘氏は遡ると大江氏の養子に迎えられていたり、と中原・大江氏に近い橘氏であるからである。

この時代大江氏と中原氏も系図が一部重なっていたり、どちらも名乗っていたり、という事例がある。(中原と清原、清原と大中臣も同様である。)

===*===

平時家に戻ると、
妻が上総広常の娘である。

その周辺
広常の兄弟は、伊西常景、印東常茂、匝瑳常成、佐是円阿、大椎惟常、埴生常益、天羽秀常、広常、相馬常清、臼井親常、時田為常、金田頼次
広常の子には、能常、平時家室小笠原長清

さらに時家の娘は大江親広室(竹御所女官、のち大江親広室)である。
大江親弘は、大江広元の息である。しかも村上源氏に猶子として入っている。

===*===

明法道・大外記内外記・出納などの仕事ばかりではなく、家司や乳父母もこなし、地頭職も持ったりする中原氏。
多忙で多才である。







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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-10-12 01:02:39
大江さんの息子さんの奥様が竹が付くんですね!
ありそう。大江さんは知識ある一族ですから。

最近中原街道とか武蔵中原とか意識していないですけど川崎寄りの方でもいらしていたんでしょうね。
問題はいつか?なんですけど鎌倉よりももっと早いんではないかな?奈良時代を狙ってます。

で文武天皇絡みっぽく思いますよ。
ひとまず相当ややこしいんで深堀しないできた情報拒まずでいきます。
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