http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/pdf/m-P112-113.pdf
この高盛が頼盛息という情報は他には出てこないようだが、それは横に置いて、この鎌倉時代に平姓で荘園の地頭となれるのは、限られた人であろうと思われる。
この【六人部新荘】が平頼盛の所領であったが、一時没収されて、その後頼朝より戻してもらっているので、頼盛と高盛とは関係があると思う。
そして、この近くにある福知山観音寺の別当として【平高盛】が文書に出てくる。そして【中原氏】も出てくるのである。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/amata/kannonji.html
上記のweb「福知山市史」の中ほどより↓
『観音寺文書』のうち「左衛門少尉中原朝臣寄進状」と「左衛門少尉中原朝臣願文」には、鎌倉時代に観音寺が観音信仰の盛んな寺であったことを認めることができる。
『観音寺文書』で残っているうち最も古いものは、平高盛を観音寺の別当職に任じた建仁二年(一二○二)の「観音寺別当職補任状」である。
そして、この関連で、どこが初見だったかは忘れてしまったのだが、非常に興味深い人物【中原如意丸】を見つけた。
調べてみると、藤原光能の孫ではないかと思う。
【藤原光能―律師覚能―中原如意丸】
承久4年に薦江保地頭(六波羅下知状、播磨国一方庁直職并恒富保下司公文職及薦江保、中原氏相伝=多可郡か賀茂郡の内 )
…ということは、藤原光能も「中原氏」だったということになるのではないだろうか?
この高盛が頼盛息という情報は他には出てこないようだが、それは横に置いて、この鎌倉時代に平姓で荘園の地頭となれるのは、限られた人であろうと思われる。
この【六人部新荘】が平頼盛の所領であったが、一時没収されて、その後頼朝より戻してもらっているので、頼盛と高盛とは関係があると思う。
そして、この近くにある福知山観音寺の別当として【平高盛】が文書に出てくる。そして【中原氏】も出てくるのである。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/amata/kannonji.html
上記のweb「福知山市史」の中ほどより↓
『観音寺文書』のうち「左衛門少尉中原朝臣寄進状」と「左衛門少尉中原朝臣願文」には、鎌倉時代に観音寺が観音信仰の盛んな寺であったことを認めることができる。
『観音寺文書』で残っているうち最も古いものは、平高盛を観音寺の別当職に任じた建仁二年(一二○二)の「観音寺別当職補任状」である。
そして、この関連で、どこが初見だったかは忘れてしまったのだが、非常に興味深い人物【中原如意丸】を見つけた。
調べてみると、藤原光能の孫ではないかと思う。
【藤原光能―律師覚能―中原如意丸】
承久4年に薦江保地頭(六波羅下知状、播磨国一方庁直職并恒富保下司公文職及薦江保、中原氏相伝=多可郡か賀茂郡の内 )
…ということは、藤原光能も「中原氏」だったということになるのではないだろうか?