土岐頼芸は「天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放された。」とwikipediaにある。
ところが息の頼次は 1545年生まれとwikipediaにある。(矛盾している)
六角定頼の娘には、土岐頼芸の室の他に、武田 信豊(たけだ のぶとよ)に嫁いだ娘がいる。
この若狭武田氏の信豊の息「信由」に注目して見ると面白いことがわかる。
「武田 信由(たけだ のぶよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の客将」
この客将となった詳細は「父・信豊と兄・義統が争った時に信由が父信豊方について敗れ、弟の義貞と共に甲斐国の武田信玄の下に亡命して、食客としての待遇を与えられた。」
客将であったのは1558年~1561年のことのようだ。
この姉妹の連携で、土岐頼芸も武田信玄(寄寓したころには勝頼になっていたかもしれないが)のもとに行こうと思ったのかもしれない。
頼芸が頼って行った土岐治頼は1557年に亡くなり、
次に土岐為頼のもと行った。
その時期は分からないが、土岐為頼が息に家督を譲り世代交代があったのは、1579年である。
武田氏のもとに移動したのは1573年に武田信玄が亡くなっているので、それ以前であったかもしれない。
配下の板垣信方が同じ清和源氏という事で、世話役を仰せつかっていたのかもしれない、とも思ったが1548年に没していた。
同族於曾氏の左京亮信安(板垣信安)が同じく清和源氏の出である。
この系は後に加賀藩士となっているそうである。
於曾氏は人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で甲斐源氏の一族である加賀美氏の支流である。
この 加賀美氏は、土岐氏の家臣の各務氏(各務 元正とか)とつながるのではないだろうか??土岐政房の娘の嫁ぎ先が各務氏である。(各務盛正)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BC%E6%9B%BE%E6%B0%8F