久良岐郡六浦庄とは…
久良岐郡はそう呼ばれる前には「海月郡」と言われていたようだ。
保元二年に大中臣実経が義朝かそれ以前に給わった時には相州六連庄となっているが、同じ六浦荘と思われる。
昨年貰って来た金沢文庫パンフレットには、『北条実時は武蔵国久良岐郡六浦荘金沢に居館と称名寺を建てその傍らに金沢文庫を創立しました。』とある。
鎌倉時代からは、久良岐郡となって武蔵国になったのかもしれない。






平安時代には大中臣氏が六浦荘地頭職を担っていたのだが、鎌倉時代のある時から北条氏に移っていたことになろうと思う。
つまり、大中臣氏としては実経・実久の時代に最高潮の時を迎え、その実久の曾孫の時代には丹波国に移住することとなったという事のようである。
しかし、まだ那珂氏は東国に残っていたようである。
以前調べた際に倉栖氏(倉樹とも?)が金沢文庫のあたりに居たのも、大中臣氏と関係があったような気がしている。(北条貞顕の祐筆であった倉栖兼雄 の一族か?)
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宮騒動(1246年)か霜月騒動 と関係があったのかもしれない。