九里武兵衛は津軽に流され、事件に巻き込まれて自害したのだが、その兄弟や息たちはどのようになったのだろうか?
何故、我が系が良峯姓と関りがあり、原氏・橘氏・前野氏・佐々氏、と近い関係があるのかを考えるに、この武兵衛は前野武兵衛なのではないか?という疑問が湧いてくる。
(前野氏一族の屋敷は広大で、天満社の南に野田清助、前西が武兵衛、東が喜平次、裏が久三郎(森勘解由雄成)、東隣りが孫九郎、裏が将右衛門などの屋敷が建ち並んでいました。)
江南市の観光協会HPより
http://www.konan-kankou.jp/kankouannnai/s13/
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前野武兵衛を調べてみると、どうも九里十助のような気がするのである。(十助本人ではなく、武兵衛はその父かもしれない。また、代々武兵衛を名乗っていたかもしれない。)
この辺りは後の記事で整理する。
武兵衛は吉康の舎弟という。 6歳年下となる。
その周辺の情報を自分の記事内で調べると(武功夜話からその都度拾ったものだったと思うが、名前が交錯、メモを取った私も混乱している)
嘉兵衛の兄又五郎尉〔前野吉康〕
前野又五郎忠勝の室は山内氏
忠勝・為定は「又五郎」を称し、さらに勝長の息吉康も「又五郎」を称したことがわかっている。
九里十助は「又五郎」の息である。(忠勝の息・母は山内氏かもしれない)
吉康:勝長長子又五郎という、左馬助と成り加賀守となる、吉康没年不詳。
前野小兵衛尉の嫡子又五郎吉康という。加賀守となる、佐々蔵介成政に奉仕。
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上の系図は肥後国前野佐々系図なので、肥後国と関係の薄かった十助(後の武兵衛)の系がすべて載っているわけではなかったのだ。六左衛門・七右衛門とあるので、又八・又九がその兄弟にいたかもしれない。
この人物(九里に来てくれた十助=武兵衛の息カ?)自身は1538年生まれで、1611年に73歳。
本人とは限らず、同じく武兵衛を名乗った同じ系の人物(つまり息か孫)が津軽に流された人物なのではないかと思う。
そして弟や息たちがいたとする。
父か兄が不名誉な事件に巻き込まれて自害したために、そこで、いったん岡田を名乗らせたと考えられるのではないだろうか?
長康の娘も岡田氏に匿われ、系図の中にも「岡田勘助」に嫁いだ女性もいて、岡田氏とはご縁がある様なのだ。
京極高次分限帳の中の九里次郎兵衛も兄であったかもしれない。八郎右衛門ではないというだけなのだ。
今まで調べてきて、良峯姓に近く、かつ、岡田清左衛門が登場するのは、ココしかない。
ココが接点。
大和宇陀松山藩の初代九里政直は津軽に佐々義勝氏(一義)と共に配流された九里武兵衛(前野武兵衛)
更に考えられるのは京極氏・津軽氏もキリシタンと関係があったはずであろうという事。そこも、今回気になった。
佐々義勝はキリシタンかどうかはわからなかったが、母親は京極竜子である。彼女の母親は熱心なキリシタン「京極マリア」である。
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なんとなく、それらしい気がしてきた。
山内氏と近いという事は、乾氏とも近い。 しかも一番下に出ている「乾正方」の家紋は榧之内十文字
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