経範が源頼義の家臣であったとすると、その父源頼信には、経範の父佐伯経資が仕えていたのかもしれない。
源頼信の父は源満仲、母は藤原巨勢麻呂の系菅根の息元方の娘である。
という事は、佐伯波多野氏は、満仲か菅根の家臣であった可能性がある。
源頼信は石見国国司であったことがあり、其のときの目代には清原氏であったのではないだろうか?
清原頼隆の時代である。
清原の系をたどると
頼隆(979-1053)ー 石見守定隆(?ー1072)ー 定俊・定慈(1003-1054)・(養子)浄命(父:能登守 清原頼佐)
定慈 ー 定康(1042-1113)ー 祐隆 1080-1143 ー 頼業(1122-1189)・祐安(1123年以降ー?)
石見国の久利氏(記載があった年)
1063年 清原頼行
1084年 清原則房、清原正宗、清原近俊、入道学源
1126年 清原長房
1169年 清原行房
源頼信の時代に石見国とのつながりで、頼信・頼義・義家・義朝…と近いところにいた清原氏もいたであろうと思う。
佐伯・波多野氏も同じように、近くにいたのではないだろうか?
そのあたりがわかれば嬉しいのだが、どのように調べていけばよいだろうか。
頼信の母藤原元方の方の家臣が其の娘についてきた場合もあると思う。
源頼信の時代が藤原巨勢麻呂流・佐伯波多野・清原・中原のはじめの接点であった可能性がある様に思う。
以前書いた記事だが…
1028年 中原成行は平直方、次いで源頼信に従って出陣・・・江州中原氏 成行の兄弟が経行(経憲)で九里に続く系
多賀氏の時に調べ、書いた対応表
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/ad03d58a8e1412a3b58252ae998c2d38
平直方にはじめは付いていたとすると、その頃東国にいた可能性が高いと思う。