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大嶋奥津嶋神社のことである
【延喜式神名帳】奥津島神社 名神大 近江国 蒲生郡鎮座
(大島神社旧地)日牟禮八幡宮
【現社名】大嶋奥津嶋神社
【住所】滋賀県近江八幡市北津田町529
北緯35度10分14秒,東経136度4分52秒
【祭神】大国主命 奧津島比売命
【大島神社】
『神名帳考証』「大八州霊」
『神社覈録』「三女神」
『大日本史神祇志』「端津姫命」
【奥津島神社】
『神名帳考証』『大日本史神祇志』『地理志料』「瀛津島姫命」
『神社覈録』『神祇志料』『特選神名牒』「奥津島姫命」
大嶋奥津嶋神社文書
北津田町(529番地)の大嶋・奥津嶋神社所蔵の「奥嶋百姓等庄隠規文(おきぶみ)」は鎌倉時代初期の1262年(弘長2年)に記されたもので、その内容は、他人の悪口や告げ口を固く禁じ、村人の団結を図った掟文です。わが国中世最古の「村掟」として、1987年(昭和62年)に国の重要文化財に指定されています。
大嶋奥津嶋神社
大島興津島量神社は、延喜式神名帳加列の名神であり、興津島神社は名神大に、大島神社は名神小に列せられている。両者は各々別の処に鎮座されていたと思われるが、いつ頃からか同境に鎮座されている。永仁6年神宮村人の起請文には既に両社と記してあり、延文5年比丘尼法心の寄進状には大島郷奥島庄内の田地を大島息津島両社の神供料として寄進する旨が記されてあるので、それより以前に両社が一境の鎮座である事を、知る事が出来る。本社の創祀は、社伝には成務天皇高穴穂宮遷都の時に、大臣竹内宿禰勅を奉じて勧請するとあり、その後天智天皇志賀大津宮に御在世の折、皇后さま御不予により当社に平癒の祈願されたところ忽に霊験があったので、勅使をご差遺になり奉賽の幣帛を奉られた事や、同7年天皇御幸の時に又幣帛を奉られた事など伝える。島中より所産の■が天智天皇の御代より、長寿無病の霊果と称えられ長い間、朝廷への貢ものの嘉例などと考えられるは、大津京時代には、比の島と皇室との縁故の深かった事を知る事が出来る。大島神社は大国主命を祭神とし、稱徳天皇神護景雲元年神封一戸を充てられ、興津島神社は奥島比売命を祭る大同元年神封一戸を充てられた事が、新抄格勅符にあり、三代実録貞観元年の条には、近江国従五位下興津島神従五位上を授け奉るとあり、それ以前より神位を授けられていた事を知ることが出来る。大正3年県社に加列、同4年神饌幣帛料供進指定となる。社宝として大般若経六百巻、古文書二百余通を蔵す。
滋賀県神社庁
日牟礼八幡宮の場所が、実は大嶋奥津島神社だったということだろうか?
一体何があって、移動することとなったのであろう?
元々は大きな土地で、一帯が大島神社で、竹生島のように島全体が神社だったのかもしれない。
その後、島が二つに離れたのだろうか?
でも凄い志あった地ですね。
大島神社って聞くと確かにあちこちにありますけど
島だったんですかね。地図見てみます。
八幡探ししているんですけど、知識が少しづつ増えたんでやっと行ってみる勇気が出てきました。まだ時期は良くないんですけど、コロナが落ち着いてもう少しいい状況になったら神様に挨拶してみたいです。
市川市の法華寺の辺りも昔は「八幡荘」であったのでは?と思います。
最新記事で雷も群馬に行った時行ってたらなあとも。雷相当私も興味持って調べています。栃木あたりも結構出会いましたよ。七夕も関係して来そうです。夏至もあるかな?
あと石ノ森さんのお名前も石森と書いていしのもりと読むってのもちょっと民族的な文化ありそうですよ。宮城にはある。最近上ノ宮って地図で出てくる事も多いのですが表記なくてもノ入れる所も関係してきそうに思います。色は青っぽいかな。当然金属を作れる方々と合致してくる可能性はありそうです。作れないと所有も出来ないはずですから古墳等でも楽しみです。久しぶりに覗きにきましたよ。また追加記事読んでみますね。
今夜の見逃しており、残念。
小布施…といえば、三善氏から布施氏が出ていて、中原とも関係があり、近いのです。
間に「ノ」を入れるのは、クノリもそうですね。
最近「クリ」が古くて、「クノリ」が後で出たのかもしれない‥‥とっも思ったりしています。
山栗臣、とか栗を見かけることが多くて、そこから来たのか…?とか。